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韓国民族が韓国の天主教会を建てた物語


韓国民族朝鮮天主教会創立史
韓国民族が韓国の天主教会を建てた物語
卞基栄 Monsignor 原著, 徐永任 譯述

韓国天主教発祥地天真菴聖地


端書き

我々韓国民族が神様を仕えながら歩いて来た道を、遥かな昔まで手探りながら今の我々の生活の中でその跡を捜して研究した仙人の各種の文献と資料等を集めて比較・綜合し、より一層詳しくて明らかにする事は現在準備している『韓国民族の天主信仰史』でより詳しく扱う事にしよう。
ここでは、主に2世紀前、曠菴李檗聖祖が韓国天主教の発祥地である天真菴聖地を本拠地として、10代の青少年たちと共に宣教師や聖職者なしで韓国の天主教会を建て始めた話を伝えようとする。
特に韓国天主教会の創立史に関して今まで知られたことは殆どフランスの宣教師である聖ダブルリィ(A.Daveluy)司教の『朝鮮殉教史備忘録』資料を国内の官庁の記録や迫害者たちの記録で立証、確認する形式だった。
この本にはそういう文献資料のみならず、その子孫たちといまだについている跡と込められている先祖の体臭と、また新たに捜した資料を綜合・分析・対照・整理した内容である。
これからより詳しい内容が整理されて発行される予定であり、これを土台に後進の学者たちによっては現在我々が知っている内容と異なる部分がたくさん加えられ、より完璧な韓国天主教会の創立史が明かになることであろう。
一方200年余りの前、韓国天主教会が始まったその当時には韓国の名前は‘朝鮮’であった。しかしその後のある時は、‘大韓帝国’と呼ばれた時もあったし、また日本に占領され韓日合邦になった当時は韓国の名前自体が消えたこともあった。今は大韓民国と呼ばれている。また北朝鮮では、‘朝鮮人民共和国’と呼び高句麗と渤海と古朝鮮等は現在中国の領土である。そのなかでも一部は‘朝鮮族自治区’と呼ばれている。これからはまたどういう風に呼び方が変わるだろうか心配でもある。その上最近、中国の高句麗歴史言及を見ながら過去の歴史を振り返らざるを得ない。
それでどこででもどの時代でも韓国民族なら誰でも読み易くするために、悠久の歴史を持つ韓国民族の精神的な資質に視線を回すため、現在準備中の本を『韓国民族が神様を仕えながら歩いて来た道(韓国民族の天主信仰史)』と題目を付けた。その中でまず“韓国民族が韓国の天主教会を建てた、不思議で奇蹟的な物語(韓国民族の天主教会創立史)”を紹介する。

2004.10.14.天真菴 聖地にて 卞基栄 Monsignor



第1章
韓国民族に対する神様の攝理と長い準備


神様は韓国民族に天主信仰の精神的な資質を与えて下さった。
韓国民族は神様の民族である。
遠い昔から神様のために暮して来たし、
また神様は韓国民族と共に存在なされ加護してくださった。
我々は永遠に神様の民族である。



1.韓国民族の由来:天山山脈から槿域三千里まで

韓国民族は天山山脈から日の昇る東の方を向けて何万年もの間民族移動をした。その理由は狩りをしやすくするための経済的な理由でもなく、他の民族が住む土地を占領し征服するための政治的で理由でもない。空に浮かんで過ぎ去る太陽を神様と仕えて日々に太陽が浮び上がる東の方へ行けば、太陽の国、清くて明るい‘光の国’があると信じていたからであった。
韓国民族は明るい光を尊び白衣を愛する民族であった。あの遠い万年雪で覆われている先祖の故郷、天山山脈を後にした韓国民族は部族の慶事がある時自分の種族を表示する白衣を身につけ、空と地を繋げる梯子と思った山を神々しい物と信じて先祖が亡くなれば天に上がりやすいよう山に墓を設けた。
韓国学の先駆者たち『児時朝鮮』等を著述した六堂崔南善(1890〜1957)を含めた学者達が韓国民族の古代史に関して研究したこのような学説は、我ら民族を天の民族として神聖視する神々しい史話を我々に残してくれた。
今から凡そ一万年前後、韓国民族は今の韓国半島に至り自分たちが暮らす村を光の村(光州)、星の村(星州)、太陽の村(陽城)、明るい村(明州)、白い村(白城)、清い村(清州)、輝く村(華城)等の名前で呼ぶのを楽しんだ。
従ってこの先史時代の韓国民族の中には虎、熊、鷲等の動物を崇拝する部族もあったが、山、川、海、星、月、日、空を恐れながら敬う部族が多く、特に日と天に対する心は木や動物や地上の山や川に対する恭敬とは一段階上のものであった。

2.天祭教民俗信仰の生活時代

今から凡そ半万年ほど前の檀君朝鮮時代の前後、天、大人、族長、国に対する恭敬がある程度制度化・風習化するほどに発達し天を祭る礼式が地域によって発展した。特に天を祭る慣習は普遍的で長年の間伝統として続いて来た信仰として韓国民族の純粹で素朴な信仰から由来した。現代でも“神様が保護して下さり韓国万歳〜”という民族信仰が国歌にも表現されているように、韓国民族の心の中にはいつも神様の精神が込められているのである。
韓国民族は排他的でないので他の国民族たちが歩いて来た求道の道も受け入れ新しく継承し子孫たちに伝えた。

3.外来の宗教文化の収容

仏教、儒教、道教、キリスト教等、外国で始まった多くの宗教も我々の先祖は寛大に受け入れて我々の宗教として土着化した。
ネパールのルンビニで生まれた‘ブッタ’(B.C.540〜480)の教え、即ち仏教が三国時代に入って来た。中国の孔子と孟子の教えを中心に儒教が伝わった。しかし中国とインドから始まったこのような世界的な宗教と特に近代に韓国民族に伝わったキリスト教に至るまで全世界のすべての宗教文化が韓国民族の中に根付いて相互補完的な役割を勤めながら豊かな実を結んでいる。

第2章
神様を求める韓国民族の努力と準備

4.李수光が紹介した『天主実義』と『芝峯類説』は、初めて韓国民族に天学を認識させ実学精神を胎動させた。
世界に広がっているキリスト教は皆外国の宣教師から伝播されて始まったのだが、韓国は宣教師たちが活動する前に既に韓国民族自らキリスト教の本を外国から直接手に入れて研究し始めた。
1592年に起きた‘壬辰倭乱’の時、スペインの宣教師であるセスペデス神父と日本の修士が日本軍のために軍隊の神父として南海岸のゴムネミ(熊川)に駐屯していた日本軍の兵営内で、とりことしてつかまっている朝鮮人たちに教理を教えて洗礼を施しながら、凡そ6ヶ月ぐらいミサを捧げながら洗礼と病者の塗油等を挙行した。しかし壬辰倭乱が終わって、日本が退却しながらキリスト教の信者たちも殆ども日本に移り韓国内にはキリスト教の信者達が存続しなかった。
ところでこの戦争中に3回にかけて、芝峯李수晬光(1563〜1628)明国からの帰りに『天主実録正文』を伝えた。朝鮮の士たちはキリスト教を書籍を通じて学問的に接した。特に芝峯類説を通じて西洋の新しい知識を得て、ひいては実学精神を発展させる切っ掛けとなった。

5.許균が捧げたキリスト教の祈祷文12端と洪吉童伝

その後、儒教の教育を受けて仏教と道教等の宗教分野に関心深かった許균(1569〜1618)は、キリスト教の祈祷文集である12端を実践した最初のキリスト教信仰人でありながら韓国初のハングル小説『洪吉童(ホンギルトン)伝』を著述して朝鮮社会の制度改革に対する問題意識を鼓吹させた。後日、韓国の実学形成の元にもなったものだから儒教という現実の上で仏教と道教とキリスト教の影響を受けたこの文学は、韓国固有の民族思想である弘益人間の精神的な土台の上で創造されたものと言えよう。

6.昭顯世子と默菴李慶相が連れて来た中国人のキリスト教信者5名

1637年、丙子胡乱が起きると青国に人質に取られた昭顯世子とその秘書官である默菴李慶相(李檗聖祖の直系5代の祖父)公がペキンの東華門の近くにある東華館にとまりながら、当時ペキンに来て南京天主教会を建ててそこの主任神父を務めていたドイツ人、アダムシャル神父と接触しながらキリスト教について勉強しながら交わりを訂した。そして1645年、キリスト教の書籍と乾象崑興図等の紀念品を持って帰国する時、中国人のキリスト教信者5名を宦官として連れて帰り、しばらくの間大内山にとどまるようにした。しかしその時、昭顯世子とその連れの一部がキリスト教に入信して洗礼まで受けたのか、あるいは受けてからも秘密に付けたのか等は知られていないが、入国してすぐ昭顯世子が毒殺さると一緒に来た中国人のキリスト教信者たちは強制帰国となった。昭顯世子が外国の一般の信者たちを連れてきた目的は、韓国にキリスト教を知らせるためのことであったが、当時の政府は政敵たちの党争でこのような状況を収容することのできない思考方式と闘争の中に処していた。

7.黄海道の西海岸と豆満江の周辺に生じたキリスト教の信者達

曠菴李檗聖祖の天学研究と実践、活躍のおかげで韓国キリスト教会が創立された以前にも、朝鮮には既にキリスト教の信者達が散発的にいたという記録が日省録と備辺司謄録及び朝鮮王朝実録等に断片的に書かれてある。
特に李能和の著書にても簡潔に書かれているように、仁祖、孝宗、肅宗、英祖の時代に(1650〜1750)咸鏡北道の豆満江の周辺と黄海道の西海岸地域にキリスト教の信者達がいたという。
ただ“天主”という単語をたびたび“天柱”と表記した所もあるがそれは“天主”の間違いであり、キリスト教の事を表しているということが確認できる。しかし昭顯世子の時に一時的に中国人のキリスト教の信者達が留まった後帰ったように、ひとときの散発的で個人的な信仰行為であった。それは全体的な組織で教会を成し代を引き続く信仰生活の伝承はなかった。

8.南京の教区長である中国人羅文藻司教が高麗の教区長署理も兼任

1674年の1月ローマ教皇、クレメンス10世が中国人初の司祭羅文藻(Gregorio Lopez)神父を南京の教区長として任命すると共に高麗教区長を兼任するように人事発令した。朝鮮は既にローマ教皇庁にまで伝教の面で知られていたということから、16世紀の末から17世紀の中頃に至る間韓国民族の福音化が長い間準備されたものということが分かる。羅文藻司教はローマ教皇庁に朝鮮宣教に関して報告書を作成するほど関心深かった。教皇庁や南京キリスト教会のこのような眼識と動きを生んだのは朝鮮の使臣たちと学者たちの関心と努力が海外にまで知られたからである。特に李修光、許균、昭顯世子たちがペキンに出入しながらドイツ、フランス、ポルトガル等のヨーロッパから来た宣教師たちと接触しながら朝鮮がローマ教皇庁にまで知られるようになったのである。
しかし南京教区長のこのような位置と資格と努力は教会の宣教活動上の試図にしか過ぎなかった。これもいままでの韓国民族の努力に対するローマキリスト教会の関心と司牧的な措置であり恵みの答えであった。

9.相異な時代と場所で一時散発的に存在したキリスト教の信者達
壬辰倭乱を切っ掛けとしてスペインの宣教師と日本人の宣教師が入国して宣教活動を行い、丙子胡乱を切っ掛けとして昭顯世子と李慶相が中国人キリスト教の信者達を入国させてしばらくの間、中国の信者達が国内の大内山に滞留したし、南京の教区長である羅文藻司教が朝鮮の教区長署理として朝鮮宣教を計画・試図した。その外にも黄海道の西海岸と豆満江の周辺で一部の人々がロシアの正教会信者達や中国のキリスト教の信者達との接触でキリスト教を接するようになり、ひいては入信までしたと言われても、こんな一連の事件で見られるその当時の数少ない朝鮮人キリスト教の信者達の信仰は散発・個人的であり、入信の切っ掛けや条件が去ると後代に継承されずにほとんど当代にて消え去った。
政府で黄海道の海州地域や咸鏡道の会寧地域に牧使や県令を通じてキリスト教の信奉禁止令を下げると、非組織的で個別的だったキリスト教の信仰生活はすぐに中断されたし、南京教区の羅文藻司教の死亡と共に朝鮮宣教の計画は無産となった。即ち、朝鮮人が色々な切っ掛けで中国や日本と接触してキリスト教の信者達に出会って入信もしたが、組織的な団体を成すことができなかった。従って現在の韓国キリスト教会へと継承されず当代にて消え去ってしまった。


第3章
曠菴李檗聖祖の天学研究と実践及び教会創立活動

10.韓国キリスト教会は曠菴李檗聖祖と10代、20代の若い学者たちが主軸となって始まった。

李檗聖祖を中心として天真菴から始まった若い少年たちの天学研究と信仰実践及び伝播運動は、いろいろな難関と残忍な迫害にもかかわらず持続的な発展を繰り返えして現在の韓国キリスト教会を成した。そして朝鮮の社会改革と近代化に大きな影響を与えた。
多くの史家たちは、李檗(1754〜1785)、李承薫(1756〜1801)、丁若銓(1758〜1816)、丁若鍾(1760〜1801)、丁若(1762〜1836)、権哲身(1736〜1801)、権日身(1742〜1792)等、韓国キリスト教会の創立に貢献した主役たちが当時の南人係に属した学者たちで、聖湖李瀷(1681〜1763)、順庵安鼎福(1712〜1791)等の実学者たちと先・後輩の関係で実学者たちが韓国キリスト教会を立てたと思っているが、当時天学と呼ばれていたキリスト教信仰運動の組織的な出発は“実学者”と呼ばれるには実に若い10代後半の少年たちと20代初半の青年たちの活躍で始まったのであった。
特に、朝鮮の実学者たちが韓国キリスト教会を立てたのではなくキリスト教会に関心を持って書籍購入、祈祷文暗誦等で入門しキリスト教を学界に知らせて研究・実践まで試図し、さらには精神的では入信予備者たちと言える人々によって朝鮮の実学が胚胎し始めたのである。芝峯李光や許筠、昭顯世子、李慶相公等のキリスト教書籍購入と普及、研究と実践試図等は西洋の世界を知らせながら塞がっていた朝鮮社会改革の問題意識を持つようにした。引き継いで中国からの帰りに天学書籍を持って帰って研究した鄭豆原や李頥命、またこれを批判的に見た申厚담、聖湖李익や順庵安鼎福、権哲身、権日身、李檗、李承薫、丁若銓、丁若鍾、丁若錨の研究と活躍は皆キリスト教の書籍から始まり、活動の領域を広げている。朝鮮の実学がキリスト教を生んだのではなくキリスト教が朝鮮実学を胎動させ当時の実学の胎動に大きな影響を与えた天学、即ちキリスト教真理探究と実践にまで努力したのが曠菴李檗である。
1770年代になって天学研究と実践、及び伝播に中心的な指導者の役割を果たした方が曠菴李檗聖祖である。当時の朝鮮社会から見れば韓国キリスト教会創立は、まるで翻訳が著述よりもっと大変という話のように、新しい新興宗教を始めさせるよりもずっと難しい面が多かった。何故ならば十分な書籍、知識、聖物、宣教師たちとの接触が大変だったし、また接触するために出国することも本当に難しい時だった。だからといって勝手にすることもできなかった。なおかつ国内では天学に対する排他的な無理解と迫害で、学習とその実践がもっとも難しかった條件下で不慣れの韓国キリスト教会を創立したのである。

11.“韓国キリスト教会の創立者は曠菴李檗”-聖Daveluy

聖ダブルルィ司教(1818〜1866)は、1845年金大建神父(1821〜1846)と共に朝鮮に入国して21年間宣教しながら、朝鮮カトリック殉教史の原本資料集である備忘記を含めて多数の本を執筆した。フランス人の宣教師として朝鮮教区第5代の教区長を務め、1866年に殉教し聖人の諡号を受けた。朝鮮に入国した後朝鮮カトリック会史を長年研究した彼は、韓国キリスト教会の真正な歴史が‘李檗(1754〜1785)の講学会’から始まったということを自分の著書を通じて強調している。

“真の意味の韓国キリスト教会の歴史は李檗の偉大な講学から始まった”

“朝鮮に初めてカトリックを伝播させるため神様が選んだ道具は、李檗という方である。名前は徳祖、号は曠菴、慶州李氏の家門であった。”

“李檗は朝鮮にキリスト教会を創立するため碩学のアムブロシオ権哲身を選択した。”

特に1783年李檗聖祖が李承薫先生をペキンのキリスト教会へ派遣しながら訓戒した内容をダブルルィ司教は次のように記録している。

“君がペキンへ行くようになったのは天主が我が国の民を愛され救援して下さるということを現わすサインである。ペキンに到着したらすぐ教会を尋ねて西洋の士たちと相談しなが勉強して、彼らと一緒に教理を研究してカトリック実践に対するすべてのものを詳しく学び必要な諸本を持って来てくれたまえ。我が民族の生死がかかった事である。即ち、来世に関する重要な事が君の手にかかっているのだから向こうへ行っても軽い行動は避けてほしい。李昇薫はこの言葉を胸にして、これを師匠のお言葉(la parole du Matre)と受け入れた。それに自分自身も同じ考えだったので共同の信念であるこの願いを遂げるためすべての努力をつくすことを固く約束した。”

ここで我々が注目するべき事実は、李承薫先生が李檗聖祖のお言葉を“師匠のお言葉として受け入れ胸にした(la parole du Matre)”という部分であるが、ここで師匠(matre)という単語の初字mを大文字Mと書いている。フランス語やイタリア語でmatreをMatreと書くのは普通の先生ではなく、人類の大師匠である孔子、釈迦牟尼、キリスト、マホメットのような方を示す。これは当時の李檗先生の位置、信望、地位、学徳、権威などが一般の聖賢君子の水準を越していることを表している。
このように聖Daveluy司教は、韓国キリスト教会創立史の始まりを1784年李昇薫先生のペキン領洗とせずに、李檗聖祖の“素晴らしい講学会”と見なしている。しかも“権哲身の講学会”という言葉は一度も使われていない。実際的に権哲身が当時の偉い学者であったことは事実であるが外国の宗教や新興思想を宣伝し組職を結成する推進力を持った革命家らしい人物ではなかった。

12.“李檗が朝鮮信徒会の代表として李承薫をペキンに派遣”-聖Maubant神父

聖Maubant神父(1803〜1839)は、1836年朝鮮に来た最初のフランス宣教師であり、金大建(1821〜1846)、崔良業、崔フランシスコ等の少年たちをマカオの神学校に通わせる時、推薦書を書いた神父である。彼が入国して2年ほど経った時、パリに送った手紙と文献には韓国キリスト教会の創立歴史に関する非常に重要な内容が載ってある。

“1720年頃にペキンへ来た使臣の李公(訳者注.李頣命)が西洋の宣教師たちからカトリック諸本をもらって朝鮮に帰ったが[…]この諸本を読んだ曠という人(訳者注.曠菴李檗)は後日ヨハネという洗礼名を持つ方である。この方がカトリック教理に共感、心酔してカトリックを全心で受け入れ(embrassa la religion chretien)[…] 李檗はこの新しい宗教に合流した何人かの改宗者たち(proselytes)と共に力を合わせて(de concert)、1783年自分たちの代表者(autredelegu)をペキンに派遣した。この代表者は1784年の2月にペトロという洗礼名で洗礼を受けた。”

13.“大聖人李檗が私にキリスト教を教えてくれました。”-李承薫

李檗聖祖によって派遣され1784年の春にペキンで領洗を受けた李昇薫先生は、1789年ペキンの宣教師に次のような内容の手紙を送った。

“一人の聖賢にお会い致しました。この方は我々の宗教に関する本を既に持っていらっしゃり、その本の内容に関して詳しくて自分をそれに適応させました。この方の努力は無駄でなくこの宗教の理解出来ない部分についてもよく把握していらっしゃいました。キリスト教に対するこの方の信徳と熱誠は教理知識より一層高い水準でした。まさにこの方が私の師匠であり私に魂を吹き込んでくださったお方です。私はこの方を仕えながら一緒に天主を仕えます。”

14.“天学研究に卓越した李檗聖祖が李承薫をペキンへ派遣した。”-金大建神学生

金大建神父が神学生の時(1845年)に書いた韓国キリスト教会の略史報告書の書き出しにも曠菴李檗聖祖の記録がある。

“朝鮮には多くの哲人たち(philosophantes)が宇宙万物を創造なされた天主がいらっしゃる(naturali lumine【…】verum Deum【…】)ということを自発的に研究、認識したが、その中で最も有名な(inter eos celebrior)方は李檗である。この方は天主を敬おうと努力したあげく、当時ペキンでは天主恭敬が生い茂っているという事を聞いて、人々をペキンに行かせてカトリック書籍を持って来るようにした。李昇薫は李檗博士(doctor I Pieki)に父の李東郁と共にペキンへ行くと伝えた。李壁は李昇薫にペキンへ着いたら西洋の人からカトリック書籍を得てくるようにと語りました。”

これは李檗聖祖が亡くなってから60年後である1844年にマカオにいる23歳の金大建神学生によって書かれた内容である。彼は忠南のソルメという村で生まれ、7歳の時京畿道の竜仁へ避難し10年余りを住んだ後、15歳の時(1836年)マカオへと発った。その当時には歴史書もなく迫害中だったので教会の組職もまともになく、カトリック信者の数もごく少なかった時代だったという事実の上、この歴史的知識は金大建少年の師匠だった丁夏祥パウロ(1795〜1839)と丁夏祥パウロよりひとつ年下の金濟俊イニャツィオ、すなわち金大建少年の父から聞いた話だということが分かる。
李檗聖祖の死後60年間は朝鮮の幼い少年たちまでも“韓国キリスト教会はあの李檗が立てた”という知識を持っていた。

15.“朝鮮天主学の始祖は李檗”-朝鮮王朝実録

韓国キリスト教会を曠菴李檗聖祖が始めたということは、キリスト教会側の資料のみならず朝鮮王朝実録にもその記録が残っている。
“丁若鍾を取り調べた結果、元々初め西洋学(天主学)の始めは李檗であり李檗は李承薫を密かに変装させて父の李東郁公と共にペキンへ派遣した。”

なおかつキリスト教を迫害した人々が当時李檗聖祖の二人の兄弟に対してあげた次の上疏文は、当時曠菴李檗聖祖によって韓国キリスト教会が始まったということを皆が公認していたという証拠である。

“李檗は邪悪な団体の頭目だというのに何故その兄、李格がまだ官職にいられるのか。実に情けない話である。直ちにその兄弟たちを追い出さなければならない。

“邪悪な団体の頭目と言えばそれは李檗だ。”


16.“李檗は韓国キリスト教の始祖である”-李晩菜の闢衛編

“李檗はあの邪悪なキリスト教を最初に始めた頭目であり、キリスト教人たちの始祖(一世)ということを皆知っているではないか”


17.“ペキンの天主堂へ行き祈祷書を得て領洗を請じたまえ。”黄嗣永帛書

李檗が李承薫をペキンに行かせて洗礼を受けて帰るようにとした事は、既引用したダブルルィ主教の書簡、丁若鍾の証言、そして金大建神父の手紙などで分かったが、黄嗣英(1775〜1801)はこのことを自分の帛書に次のように記録している。

“李承薫は、李檗が信頼して頼もしく思った学者であった。1783年父と共にペキンへ行く時、李檗は“ペキンには天主堂があって天主堂には伝教者である西洋の学者がいるはずだ。彼らに祈祷書を求め、その後領洗を請ずるように。すれば彼らは君を嬉しがるだろう。そして聖物をたくさん持って帰りたまえ。手ぶらでは困る。”李承薫は李檗の仰った通りペキンの天主堂に到着して洗礼を請じた。【…】”


18.“李承薫、丁若鍾の3兄弟、権日身父子が李檗を仕え”-闢衛編

1784年、李承薫先生がペキンから帰国して1年後に起きた1785年の乙巳迫害に関する闢衛編の記録にも曠菴李檗聖祖と当代の他の学者たちとの関係が載っている。

“1785年の春、金範禹の家で李檗という人が説教をした。青いタオルで頭と肩を覆い壁によって座っていた。その前には李承薫、丁若銓、丁若鍾、丁若匹3兄弟と権日身父子が本を手に持って李檗の説法を聞いていた。自ら自分たちは李檗の弟子と言った。李檗は彼らを激しく教えたり叱ったりした。その厳格さは儒教での礼義よりもずっと厳しかった。”





第4章
丁若匹諒幻イ妨修錣譴薪型粋燭匪ヨ人檗聖祖

19.“聖賢の学徳と豪傑の気迫を備えた李檗”-丁若

韓国キリスト教会の始まりに対する歴史記録中、比較的詳しく曠菴李檗聖祖と天真菴について記録を残したのは茶山丁若匹任△襦H爐1777年の15歳に当時23歳の曠菴李檗先生を“聖賢の学徳と豪傑の気迫を備え”、そして“幼い頃から徳を磨いたお方であり”完徳の標本だと思いながら李檗聖祖を尊敬した。
かれは“贈李檗”という詩も作った。


20.“人間の世界に来られた仙人の国の鶴のような曠菴公から我らは神の風采を見た。”-丁若

“人間の世界に来られた仙人の国の鶴のような曠菴公から我らは神の風采を見た。”23歳の丁若廟萓犬作ったこの詩からみると李檗聖祖の学識と聖徳は一般の聖賢君子の水準ではなく、神聖な超人的だったことが分かる。

21.秋に乗ってふらりと飛ぶ鶴のように、曠菴公が去ってから1年。昔のように赤く染まった天真菴の紅葉を見に行こう。-丁若

茶山は講学会の場所だった天真菴をよく訪問して詩を作ったりした。幼い頃のみならず、李檗聖祖が殉教なさってから一年が経った1786年の初秋にも24歳の茶山は天真菴で天真菴賞楓を作った。紅葉は茶山の故郷も立派だが、わざわざ天真菴まで足を運ぶのは忘れることのできない曠菴公に対する心ではないだろうか。朝廷での仕事で多忙な時にも丁若匹賄型粋燭鬚茲訪ねた。またたびたび天真菴を‘天真’と呼んだ。

茶山が天真菴を訪問して作った詩の中でかなりが教会歴史研究に役立つが、茶山は天真菴で曠菴公の修道、研究、講学会開催などに参加したことを前提とする詩を沢山残した。

22.“天真菴にはまだ李檗の読書場がそのままある。”-丁若

1797年、正祖を仕えているとき、35歳の茶山は兄たちと端午の日に天真菴に来て二日を泊まりながら20首の詩を作った。その中には“端午の日に二人の兄たちと天真菴に来て遊びながら”という詩がある。

23.正祖王が出した宿題をしてくれた曠菴公の文が書かれた本を眺めながら涙を流した丁若

茶山公が李檗聖祖を慕う心は30年が経った後に書かれた『中庸講義補』にも切切と現われている。この本は茶山公が1784年太学生だった時、正祖が中庸に関して宿題に出した70の質問に答えた中庸講義を1814年の島流しのとき、54才の時補完したものである。

特に李檗聖祖が亡くなって30年ぶりに添削補完する茶山の『中庸講義補』の中には“この文章は私が書いたのではなく曠菴の文章だ”、“この言葉は私が言うのではなく曠菴の学説だ”、“この解釈は私がしたのではなく曠菴李檗が解いた”、“中庸をよく読めば曠菴李檗の文章がたくさん出てくる”などがある。

1770年(17才)を前後に読書に熱中した曠菴公は当時の慣習によって15才に結婚した。だが学文研究に夢中になったため家廷はなおざり。天真菴の山奥で天学研究に専念してキリスト教の戒名を実践するのに熱中した。一人息子である李顯模が生まれたのが1784年である。
李檗聖祖の夫人、柳閑堂権氏が20歳という若い年に亡くなると彼女の父、権氏は1785年の乙巳迫害の時からキリスト教迫害に先立った。死んだ娘の恨を思いながら婿の李檗に対する憎悪心が高まったのである。

第5章

曠菴李檗聖祖の韓国キリスト教会創立

24.天真菴で天学を研究・修道した曠菴李檗聖祖の韓国キリスト教会創立活動

今までの歴史記録は皆曠菴李檗聖祖が韓国キリスト教会創立の主役だということを証明している。これから韓国キリスト教会がどのように創立されたのかより具体的に並べる前、その概要を一目瞭然に列挙すると次のようである。

‥型粋親表饐譴鯏軍愼讃譴箸靴銅堯κ・天を合流させた。
▲リスト教の教理講学を信仰実践の修練会として発展、持続させた。
士たちを集めて信徒団体を結成した。
ね承薫先生を韓国キリスト教会の信徒代表者としてペキンに派遣した。
ジ哲身大学者を含めた李承薫、丁若鍾たちを入信させた。
ε型粋燭ら水標洞に集合場を移して、祈祷会及び教理講座を主管した。
李家煥、李基譲等の儒学者との公開討論会で大勝を博した。
明礼坊へと集合場所を移して祈祷会及び教理講座を主管した。
天真菴で水標洞、明礼坊、馬현、楊根等地で天学信仰を伝播した。
金範禹、崔昌鉉等の中人たちを入信させてキリスト教会に庶民も合流させた。
乙巳迫害の時、家門の迫害で家内軟禁、餓死罰毒殺で殉教した。
李檗聖祖が殉教なさった後約60年間(1785〜1845)、即ち金大建神学生の時までは朝鮮の儒林たちとキリスト教迫害者、また官僚たちとキリスト教信徒たちも曠菴李檗聖祖を韓国キリスト教会の創立者、即ち始祖(1世)として皆が認めていた。

25.天真菴の李檗読書場と講学堂は若い士たちの天学道場

1770年頃、曠菴李檗聖祖は16才の時、天真菴に読書場を決めて天学を研究・実践した。すると彼のあいやけである丁若銓、丁若鍾、丁若匹詫弔で令だったにもかかわらずよく天真菴を訪問して修道した。
1827年65才の老人になった丁若廟萓犬蓮⇒弔ず天真菴で一緒に修学した友達、玄谿令公、石泉翁、季林、聖九、規伯たちと一緒に廃墟になった天真菴を尋ねた。お坊さんたちは皆発ったのでかれらは村に住む伊蒲の案内で3日を泊まった。この時丁若桧豺圓40首の詩を作って天真消搖集を残した。

26.極寒にも天真菴で10日間講学会を開いた若い先覚者たち

1777年〜1779年の間、当時10代の少年たちは冬にも天真菴で講学した。当時は宗教という単語を使わなかったのでキリスト教も天学と呼んだ。記録者たちによって天真菴での冬の講学会開催年度をダブルルィ司教は丁酉年(1777年)、茶山丁若匹浪軌臟(1779年)、丁学術の李檗伝では戊戌年(1778年)と乙亥年(1779年)と書かれているが、結局天真菴での講学会は数回開催されたことが明らかである。丁酉年には丁若15才、丁若鍾17才、丁若銓19才、李寵億14才、李檗聖祖23才、李承薫先生が21才であった。41才の権哲身大学者も夜明けから一日中本を読んで討論をし、朱子の性理書76巻に出る敬斉箴四勿箴等の文を覚えたりした。このような講学は練修会のような講学会であった。


27.天真菴に道友が集まり曠菴公は聖教要旨を書かれた。
- 1837年丁学術の李檗伝

今の宗教という言葉を当時では‘道’といい、教友という言葉も道友という言葉から来た。当時の天真菴ではキリストの弟子や東学初期の水雲崔済愚の門徒のように修道士的信徒の団体が形成された。この団体が聖maubant神父の文献に出る“李檗が改宗者たち(proselytes)と一心団合(de concert)してまた他の代表者(delegue)をペキンに派遣した”主体であった。

28.聖ダブルルィ司教の『朝鮮殉教史備忘録』

天真菴講学会について記録しているもう一つの歴史記録は、ダブルルィ司教の
『朝鮮殉教史備忘録』である。

当時に書かれた洪敬謨(1774〜1851)の『南漢志』でも“天真菴は鴬子山にある古い寺で、今は製紙工場があるので司饔院から管理されている”と書かれている。ほとんど同じ時期に茶山、ダブルルィ司教、洪敬謨は皆天真菴は廃墟になった昔の古い寺だと記録している。講学当時の天真菴はほとんど使われなく廃墟になった建物だった。
丁若匹記録した己亥年(1779年)の講学会や、ダブルルィ司教が記録した丁酉年(1777年)の講学会、皆真冬の時、雪に覆われた鴬子山を李檗聖祖が熱心に越えたということから見れば講学は雪が降る前に始まり、また暴雪で期間がもっと長くなったのかもしらない。
当時の天学研究とキリスト教信仰への曠菴の熱意と努力に我々は驚歎せざるを得ない。

29.李檗聖祖は1770年から1783年まで山奥で天学研究と実践に専念

天真菴講学会に対する記録は韓国のみならず海外の資料でも見られるが、その中で代表的なのが1885年のPullo-Pinangの『キリスト教大神学校歴史教科書』と1911年にイギリスのLongford教授が発行した『The Story of Korea』である。曠菴李檗聖祖を中心とした自発的なキリスト教研究と講学会開催及び信仰実践に関して記録したPullo-Pinangの教科書は李檗、丁若銓、権哲身の天学研究期間を1770年〜1780年の10年間とみなしている。
Longford教授は李檗、丁若銓が隠遁先で天学研究と修練に沒頭した期間は1770年〜1783年までの13年と記述した。

曠菴李檗聖祖を中心にキリスト教信仰実践の運動を行った天真菴の共同体が洗礼を受けるよう李承薫をペキンに派遣したことは、上で述べたダブルルィ司教の記録、maubant神父の手紙どおりである。特に、この派遣が一度ではなかったという事実は韓国キリスト教会史の独特な特徴を現わす証拠である。ダブルルィ司教は“李檗が長い間色々な試図と努力をしたが、皆無駄だったし([…]plusieres annees[…]infructuoses[…])、李承薫先生派遣は成功した”と記録している。聖maubant神父も“また他の代表者(un autre delegue)として李承薫を送った”と言う文で、特に[他の代表者]という文章の前後に“[…]autre(他の)[…]autre(また他の)[…]autre(また他の)を3回も繰り返して使っていることを見れば何人もが往来したということが分かる。“代理者(representant)”ではなく、ひとつの組織的な団体の“代表者(delegue)”という言葉は、外国の宣教師が朝鮮に来る前、既にキリスト教信仰人たちの共同体があってこれを代表する資格を与えて送ったという意味である。これは教会創立面での独特性と共に世界の宗教史では見られない感嘆すべき歴史である。

30.韓国キリスト教の発祥地である天真菴の来歴

曠菴李檗聖祖の読書場があり、若い士たちが集まっておよそ10年余り修学した天真菴について調べてみよう。
天真菴は本来、タングン天真を仕えて山祭祀、堂山祭、山神祭等をあげた天真閣あるいは天真堂という小さな藁葺のお堂だったと推定される。後日天真菴と呼ばれるようになった。丁若廟萓犬蓮氾型粋燭亙れて昔の姿が残ってない”と、1797年の洪敬謨の南韓志では“天真菴は古いお寺で紙を作る所として使われていたが今は司饔院(朝鮮時代の官庁)で管理している”と書かれ寺としての機能は言及されていない。聖ダブルルィ司教は若い士たちと一緒に李檗先生が講学をした所は使われていない廃家だった(isole et perdu)と1850年頃に記述した。
1779年当時、李檗聖祖25才、丁若17才、丁若鍾19才、丁若銓21才、李承薫23才、李寵億15才、権哲身43才等主に10代と20代の若者達が集まってその頃にはとても珍しいキリスト教本を読みながら実践するという事は、一般の儒教書堂やお寺または一般家庭では不可能な事だった。従ってダブルルィ司教の記録どおり、廃墟になってゆく天真菴では大勢の人が集まって何の邪魔もなく(pour s’y livrer ensemble ades etudes profondes)、キリスト教の真理を探究しながら実践することができた。天真菴はまさに儒、仏、天が合流する所でありながら韓国キリスト教会が始まった発祥地である。ところで丁若廟萓犬呂燭咾燭[天真菴]の[菴]の字を除き“天真”と呼ぶこともあった。“共詣天真”、“天真之遊”、“天真消搖集”等でも見られる。
韓国キリスト教会の創立者である曠菴李檗聖祖が天真菴を根拠地として活動なさったことが丁若廟萓犬諒犬砲盻个襦1827年65才の時天真菴を訪ねた茶山は、聖賢の学徳と豪傑の気迫を身につけた李檗聖祖が読書した天真菴の講学堂、読書場、寄宿舍等が庵と共に廃墟になって農耕地化されたことを大変悲しがった。
天真菴聖地は、韓国キリスト教会の創立先祖たちが自発的に真理を探究しながら福音を伝播して教会を立てた世界有一のキリスト教発祥地である。陰暦主日の制定と実践で韓国では初の労働者の定期的な休息と敬神礼節、社会階級打破、男女平等が教会創立と共に始まった。後日、民族の開化と近代化及び朝鮮社会改革運動が始まった全民族の精神文化の聖地でもある。
この聖地に韓国の民族宗教、儒教、仏教、キリスト教等が建築美の一部ずつを参考しながら、韓国民族100年計画の天真菴大聖堂を立てている。千年を置いて韓国民族の精神的支えとなるこの大聖堂建立には、政権を超越した各界各層と人々が力を合わせて真心を捧げなければならない。また政府を含めた地方自治団体とあらゆる機関たちもこの神々しい事業に役立つべきである。

31.洗礼でキリスト教信者になるのではなく、キリスト教信者でこそ洗礼を受けることができる。

ある人は洗礼も受けていない洗礼予備者たちのこのような活動をキリスト教会の創立と見られるのかを反問する。
ところが、聖書の記録を見れば、使徒パウロがエペソ教会へ三回目に行った時、既に沢山の‘信者たち(multi credentes)’がいたが洗礼を受けた人はいなかったという部分がある。
また使徒パウロはコリント教会の分裂を叱りながら一番目の手紙を送った。‘私は皆さんの中でクリスポとガイオ以外には誰にも洗礼を施さなかった事を神様に感謝いたします。キリストは洗礼を施すために私を送ったのではなく、福音を伝えるようにと私を送りました。’と書いた。
これは洗礼が重要ではないという意味ではなく、水で洗礼を受ける前でもキリストに対する信仰だけでキリスト教会の信者であることを確認させてくれるのである。
教会法が最も激しく適用された中世記には教会の共同墓地に埋められる事が信者達の特権だった。だが水で洗礼を受ける前、洗礼予備信者の時に死んでも洗礼を受けた信者達と同じく教会の共同墓地に埋められた。これは今も同じだ。また予備信者が死亡すれば、たとえ洗礼を受けてなくても教会はかれらを教会の家族、信者と認めて聖堂で葬式ミサを行う。
キリスト教会は洗礼から始まるのではない。むしろ教会が洗礼をサクラメントと設定して管理する。即ち、教会は洗礼より先在して洗礼を執行、管理する主体である。キリスト教を信じない未信者や無信仰者、非信仰者、信仰反対者は洗礼を受けることもないだろうが、もし受けるといってもそれは無効である。
洗礼を施す前に司祭は使徒信経の内容を信仰するかを質問してキリスト教信仰人であることを確認した後洗礼を挙行する。従ってキリスト教信仰を持った信仰人は洗礼を受ける前でも既にキリスト教会の会員であり家族であり構成員であることをキリスト教会は第2次バチカン公議会の教義で再確認宣言した。
またキリスト教会には3種類の洗礼がある。一般的にすべての聖堂で行われている水でおでこを洗って挙行する洗礼を水洗と言う。迫害中にこのような水洗を受けられず殉教した場合を血洗と言い、水洗や血洗を受ける機会がなくただ心から領洗を望みながら受ける洗礼を火洗と言う。我々韓国キリスト教会創立先祖はこの3つの洗礼を皆受けた方々である。


32.韓国キリスト教会の創立者は平信徒たちである。-教皇ヨハンパウロ2世

ローマ教皇ヨハンパウロ2世は、1984年10月14日の12時にローマの聖ペトロ大聖堂にて行われた“韓国殉教者103位聖人紀念祝日”のミサ中に韓国キリスト教会の司教全員と全世界から集まった大勢の樞機卿(金寿換樞機卿も参席)、大主教、主教、司祭たちの前で公式講論をなさった。
韓国キリスト教会創立史に関する教皇ヨハンパウロ2世の表現は150年の間歴代の教皇たちによってもずっと宣布されてきた。
しかし、当時の社会としては不慣れであるキリスト教会の創立が、どのような過程を通じてどのように完遂されたかを正確に知る人はあまりいない。なおかつ一部の識者たちまでも皮相的に分かっている人々が多い。
“韓国近代思想史上の李檗先生の位置”は洪以燮教授が1953年から数回『延世春秋』と1976年の『韓国教会史論文選集』等に論文で紹介したことがある。しかしその後に発掘された多くの資料たちを見るには色々な制約があった。韓国キリスト教会史上での李檗聖祖の位置については教会初期からかつて共認してきた。
アジアの他国のキリスト教会創立史と比べると曠菴李檗聖祖による韓国キリスト教会創立が持つ特性をより明瞭にわかるだろう。

33.日本はスペインのフランシスコザビエル神父が、中国はイタリアのマテオリーチ神父が宣教

我々の周りの他の国のキリスト教会創立史を見れば、韓国のキリスト教会創立史の特徴を分かりやすい。日本キリスト教会は1549年スペインのフランシスコザビエル(1506〜1552)宣教師が日本鹿島に上陸して伝教しながら始まった。中国キリスト教会は1292年にイタリア人のモンテコルビノが来て伝教したが、1582年からマテオリーチ宣教師がより発展させた。ローマのキリスト教会も西紀60年頃キリストの弟子であるユダヤ人宣教師のペトロとパウロでが立てた。
全世界すべての国のキリスト教会が他の国の宣教師たちによって立てられたが、韓国のキリスト教会だけは1770年頃から10年間にかけた若い士たちの天真菴講学を切っ掛けとして、我々の民族が自発的に信仰団体をつくり始めた。世界教会の歴史上で唯一に外国人の宣教師なしで韓国人たちだけによって創立されたのである。我々はこのように偉大な宗教精神文化を成した資質を持った民族であることを人類歴史に知らせた。
イスラエルの民族は神様の啓示を“受けた民族”である。いくら耳を塞いでも“サムエル、サムエル”という言葉が聞こえたし目をつぶっても見えた。
ローマの多くの民族たちはイスラエルの使徒聖ペトロと聖パウロの伝教で神様の啓示を“聞いた民族”である。
しかし韓国民族は光について東の方に民族移動をしながら神様を敬いながら自発的に真理を探究して啓示真理を“探した民族”といえる。



第6章
天真菴で始まった韓国キリスト教会が首都のソウルまで発展

34.天真菴からソウルの水標洞、明礼坊、馬현、楊根へと伝播された当時の韓国キリスト教会

天真菴で李檗聖祖と共に若い士たちが始めた韓国キリスト教会は、1784年の春ペキンの李承薫先生が領洗を受けて帰国した後である1784年の夏から本拠地を天真菴からソウルの水標洞にある李檗聖祖の自宅に移した。『推案及鞫案』や『闢衛編』に出る‘水標洞李檗家’がそこである。
だがソウルの水標洞にあった李檗聖祖の自宅はのヤンバン(当時の貴族階級)だけ出入りが可能な家門だったので、常民の信徒たちには不便な点が少なくなかった。
それで今の明洞大聖堂がある明礼坊に移した。李檗聖祖に伴う中人たちの中で明洞大聖堂の近くにある金範禹先生の家で集合するようになった。
金範禹(1751-1787)は、正式の通訳官国家考試に合格した人で当時の訳官たちは主に中国語の訳官として、漢方薬材の商人や漢方医たちとも親しく過ごしていた。中国語を教える外国語学院や漢方医院、薬材商人等を兼業する場合も少なくなかった。金範禹訳官は正之という名前で呼ばれたらしく、彼の父は金義瑞でかなりの金持ちだった。
兄弟は金履禹、金亨禹、金観禹 金積禹、金聖禹、金槿禹等の8人兄弟だった。
ヤンバン、常民、男女、老少、貧富、貴賎を問わず誰でも自由に出入りできる金範禹の家で韓国キリスト教会は社会階級の打破と男女差別打破運動が曠菴公の主導下で実践されていた。当時のヤンバン社会では決して収容することの出来ない現象であった。
これは単純な信仰団体でなく当時朝鮮の階級社会の倫理観を破壊しながら社会運動をする、政府と儒林では絶対認められない事項だったのである。



第7章
乙巳年に韓国キリスト教会が始めて経験する迫害と殉教詩

35.韓国キリスト教会最初の迫害である乙巳迫害:李檗聖祖殉教、金範禹訳官流配

1785年の春、韓国キリスト教会最初の迫害、乙巳迫害が起きた。特に正祖王の寵を得ていた丁若廟萓犬盍泙泙譟▲愁Ε襪亮宅を1784年から明礼坊金範禹先生の家の近くに移していた。1797年までの10年間明礼坊に留まった。丁若廟萓犬鮗仕覆垢訐敵たちにはとてもいい機会でもあった。
秋曹判書金華鎭が送った秋曹禁吏は李檗聖祖、権日身、権相問、丁若銓、丁若鍾、丁若鼻⇒承薫等のヤンバン出身信徒たちは家に帰して、くみしやすい家主の金範禹訳官だけを捕まえてひどく拷問した。
このことを知った権日身は勇ましく秋曹判書の前に出て“我々ヤンバンも金範禹と共に同じ宗教を信奉した。金範禹を罰するなら我々ヤンバンたちも一緒に罰せよ”と強弁したが、部下たちによって強制に帰家させられるだけだった。結局家主の金範禹訳官だけがむちうちされた。
天主学をやれば中人の金範禹がヤンバンになれるか、ヤンバンたちと一緒だと中人階級がヤンバンになれるかということだった。この時金範禹訳官は、一緒にキリスト教を信じたヤンバンたちの代わりに一人で慶尚南道の密陽郡丹場面に島流しされた。そこで1787年陰暦7月16日(陽暦9月14日)に殉教者の最後を向かえた。
一方、乙巳迫害の時安東権氏家では、大学者権哲身が49才、弟の権哲身43才で権済身、権得身、権益身の5兄弟が皆著名で尊敬されていたから、門中では比較的迫害がひどくなかった。
そして丁若廟萓犬眄義腸Δ涼を受けていたし、父の丁載遠公も和順、忠州等の高官だったため丁若廟萓犬忙長鵑波鷽祐崚な迫害をする人はいなかった。ただ一部の親戚達が不満を表した。

36. 天이地紀限西東、一주心香書共火‐李承薫

李承薫先生の父、李東郁公が中国で外交官として活躍するなどの幅利きだったし、李承薫先生も当時29才の有名な学者だったため、誰一人李承薫先生を迫害するものはなかった。ただ父の顔がつぶれる事件だったので李東郁が息子の書籍を庭で燃やすほどだった。父がキリスト教の書籍を焼却することについて息子の李承薫先生はどうしようもなかった。

37.権日身と権哲身の殉教

キリスト教は孔孟の教えと異なる。‐権日身
他殺されたのは李家煥、権哲身、姜이天等である。‐権哲身

権日身大学者は、キリスト教と儒教は異なるということを明らかにしている。
キリスト教が孔子孟子の教えである儒教とは全然異なる教えであると表現したのは事実だ。ただ、取調べをする調査官やあるいは友達が付け加えた単語としか考えられない理由は、文章の流れと全然あっていないからである。

38.李承薫、丁若鍾の殉教

月は落ちても 天の中、水は湧いても池の中‐李承薫聖賢

1801年の辛酉迫害の時、李承薫先生が斬首される直前に刑場で作りその家に伝わっている次の詩は、李承薫の確固なキリスト教信仰を表している。

月は落ちても天の中、水は湧いても池の中

この詩は李承薫先生の家に代代に渡って伝わってきた詩である。李承薫先生が西小門の刑場にいる時弟の李致薫が“兄よ、今でも天主学をふていすれば命だけは助けてやるといってます。”と言いながら哀願したが、李承薫先生は弟の手を振り払いながら“月は落ちても天の中、水は湧いても池の中”と言いながら斬首された。
月は落ちても天の中というのは、李承薫先生のキリスト教信仰はいくら刀で首を切ろうと変わらぬという意志の表現である。また水は湧いても池の中という部分は、今は幅利きたちが迫害しても池の中の水のように水がいくら湧いても池の中に沈むように、あるいは水が蒸発したり逆流すれば池は無くなってしまうように、迫害者たちの勢力と刀は地上でおしまいになるという意味だ。

月は自分の信仰を、水は迫害者たちの羽振りを意味して、天は天国を、池は権力集団を示す。もし信仰を否定しながら後悔する識者なら、過去の信仰行為はだまされた事であるとか、あるいは一時誤った道に進んだという内容の詩を作ったであろう。しかしこの詩は死に直面して命を哀願するのでもなく、信仰を後悔するのでもなく、むしろ確固なキリスト教の信仰人でなくては書けない勇ましい殉教者の詩に違いない。殉教の次に貴いのが最後の殉教詩といえる。
1801年の辛酉迫害の時に殉教したキリスト教会の指導者たちの処刑に関して迫害者たちが直接記録した内容の邪学懲義がある。

邪学懲義は1801年の迫害後に迫害の中心にいた儒林たち、特に利己頃等が著述したものである。キリスト教を邪悪な宗教と規定してこれを懲罰して定義を確立するという意味で編纂された。キリスト教の信者達を捕まえて拷問して背教した人は放して、主な人士たちは背教しても島流しに、背教せずに最後まで信仰を守った人は斬首に処した。即ち、迫害者たち自身が記録した文であるためその信憑性と価値を認めなければならない。

39.曠菴李檗聖祖の殉教  

1785年の乙巳年迫害の時に最も残酷に迫害されて殉教した人は韓国キリスト教会の創立者である李檗聖祖だった。李檗聖祖の家は武官家だった。兄と弟が兵士で父の李簿万公は気性が荒い人物だった。聖ダブルルィ主教は『朝鮮殉教者備忘録』で当時に収集した資料を次のように書いている。

“李檗の父は天性が激情的な人で、キリスト教と繋がるのを決して望まなかったのでキリスト教に深く嵌ったような息子の心から宗教的な心を追い出すために全力を尽くした。だが自分の計画が失敗すると自殺しようとした。李檗はこういう出来事に対岸の火事ではいられなかった。これ以上我慢するのもできなかったがそれとしても屈服するにもいかなかった。周りでは彼を背教させるためあらゆる手段をすべて使った。李檗はいくら苦しまれても公開的に背教を宣言しなかった。すると人々は彼の外出を禁止した。彼の信仰心は胸の中の人情に絶えず攻撃をした。こっちには神様が、他の方には父がいた。どうやって天主を否認することができるだろうか。どうやって父を死なせるか。このような絶え間ない戦いに彼は憂鬱になりだんだん言葉が少なくなった。朝夕に泣き、うめき声が聞こえた。服も脱がずに眠りもしなかった。たまに食事をしたけど、既に口がまずくなったものだからどんな味も感じられなかった。結局、当時に流行っていた黒死病(中国語では疫病)にかかった。8〜9日間病むと汗を流し始めた。看護している人々が何枚もの布団で覆った。この重い布団の下で息が詰まったうえ、汗を外に放出できなかったせいで色んな看護と努力にもかかわらず33才の年で世を去った。”

この記録でいくつか間違っているところがある。李檗聖祖の殉教年度は1786年ではなく1785年だ。ペストの事も間違っている。

40.死に控えて李檗聖祖が詠じた聖詩

原文:“무협즁봉디셰샤입듕천은하열슉디년금환텬국”

漢訳:巫峡中峰之勢死入重泉
銀河列宿之月現錦還天国


韓訳:巫峡中峰に立っている形勢だ。これから死の道を歩むけど、天の川の星座に浮び上がる月のように、絹の服で綺麗に着飾って天国へゆく。

この詩は丁学術の[李檗伝]にある詩だ。家門と親戚達の激しい迫害で家に閉じ込められ、食べ物も取らずに家の中に閉じこもった状態で亡くなる直前に作った詩と伝われている。いまだに漢文の原本が発見されず、音訳の古文のハングル本だけが伝われその真の意味を解読するのが難しい。漢文の詩も解読しにくいのに、ハングルを漢文に復原して解読するというのはそう簡単な作業ではない。しかしその頃の人物、場所、事件の性格、状況等を考慮して、他には考えられない結論に至って原文の漢文を復原、解読したのである。それでは丁学術の[李檗伝]にあるハングルの古語の原文から見てみよう。

“병오시셰공이두문불츌이러다가쟈져텬쥬밀험긔랄쟉하야시하니부이로ㅄㅓ
진로하야비오쟈라되언하시드라시벽샹에투필되셔하되왈무협즁봉디셰샤
입듕텬은하열슉디년금환텬국이라하드라후둉젹알감추드니필경득도하야뉴
월십사일자시에승텬직로하시다하나니라”

これをより分かりやすく書いてみると、

“丙午年に李檗先生が家に閉じこもったまま『天主密験記』という本を書いて父に見せると、父は激怒して‘もうわしの息子ではない’といった。その時、李檗先生は部屋の壁にこの文を書いた。“무협즁봉디셰샤입듕천은하열슉디년금환텬국”
その後姿を消したが、やがて悟りを開かれ6月14日の夜12時に亡くなった。”

41.李檗聖祖への欽慕詩

李檗聖祖の殞命詩は本人が作ったものだが、他人が李檗聖祖の徳望、学識、人柄を我々に知らせるために作ったのは欽慕詩である。
15才の丁若廟萓犬1777年に当時23才の李檗聖祖を尊敬しながら作った詩、“贈李檗”と同じ脈絡の李檗聖祖への欽慕詩は、李承薫先生が作った詩と見える。作った年代は確実じゃないけど、李檗聖祖が1784年水標洞にて李家煥、李基譲という大学者たちとのキリスト教と儒教の教理比較討論会で大勝を博し、丁若廟萓犬正祖王の出した中庸に関する70項目の質問の宿題を解答した時期を前後して書かれたとみてもいいだろう。

襟懐灑落光風霽月之無辺
思慮清明長天秋水之相暎

襟(心)に抱いたことを皆洗い流す光風と霽月の無辺さよ、
考えと心が清くて明るいから長天と秋水がお互いに照らし合って満たす。

この文は李檗聖祖の親筆“徳操戯筆”に出てくる内容だが作者と年代が正確でない。
曠菴李檗聖祖の徳望と学識等を欽慕した内容で、文章の内容と構成を見れば一般の書生のものではなく大家の筆致に違いない。また李檗聖祖を尊敬している学者でないと書けない内容から見ると、筆者は大幅狭められる。
少なくとも李檗聖祖を憎みキリスト教を迫害した者たちがこのような文を書くわけはないし、李檗聖祖の親筆を所蔵するほどなら非常に親密な関係の人なので、丁若廟萓犬簍承薫先生とみなすにも無理がない。
特にこの資料たちが蔓川遺稿とともに見つけられた点と本を大変大事にする、、ペキンの主教に送った文と似ている表現から実はこの文の作者は李承薫先生ではないかと推定する。

この文でも襟懐と思慮、灑落と清明、光風と長天、霽月と秋水、無辺と相暎が対句の形式であるが、これは当時に天学(天主学)を実践した人たちと迫害した者たちの相違なる苦痛を対句で表現したのであると思われる。

一言で言うと曠菴李檗聖祖を光風霽月に表現したのである。特に長天と秋水の
相暎と言うのは天の無限な恩寵と地の清くて明るい品性の合一を意味し、李檗聖祖の徳と人格を表している。

42.1785年に門中と家の迫害で32才の年に殉教なさった李檗聖祖の葬式で25才の丁若廟萓犬作った輓詞(死者への哀悼の文)

李檗聖祖の葬式で丁若廟萓犬作った輓詞は、李檗聖祖の人柄と徳望、気迫等を知らせている。
仙鶴下人間 仙人の国から鶴が人間の世界に下りてきて
軒然見風神 その姿から我々は神の風采を見た
羽핵皎如雪 羽と羽毛の色は真っ白く、まるで雪のようだった
鶏鶩生嫌嗔 鶏と鴨たちが嫉妬して憎んだ
鳴声動九宵 その鶴の泣き声は遠い空まで響き
료亮出風塵 その鶴の叫び声は争う世の中で優れていた
乗秋忽飛去 秋になるとふらっと飛び去って
초悵空労人 いくら悲しんでもどうしようがない


43.韓国キリスト教会の創立者である曠菴李檗聖賢の人的事項

李檗聖祖の名前と死亡年度等についてもう一度確認してみよう。李檗聖祖の死亡年度については李檗聖祖の慶州李氏門中が編纂、発行した木版本の家系図(1813年発行)に李檗聖祖の死亡年度を“1785年”と記録している。この家系図は資料収集と編纂時期がその父親の李簿万(1727〜1817)、弟の李皙(1759〜1829)、兄の李格(1748〜1812)、息子の李顯模(1784〜1847)等の直系家族たちの生存時に作られたものである。
ヤンバン家で直系家族が生きている際に編纂された家系図に‘乙巳年’と書いているならば、これは最も信頼できる記録だ。その上、乙巳年に茶山丁若匹李檗聖祖の葬式で晩詞を作ったし、この輓詞が茶山の詩文集に年代別に収録されている。もし李檗聖祖が丙午年(1786年)に死亡したとしたら、死亡する1年前に輓詞を作って葬式を行ったということだが、これは不可能である。
まだ一部の教会書籍には李檗聖祖の死亡年度をそのまま1786年と書いているが、これからは著述家たちがより正確に調べて書いていかなければならない。
特に李檗聖祖の死亡原因についても異なる主張があるが、ダレ神父の教会史にはペストにかかって死んだと書かれているが、これも事実ではない。1786年当時の各種の記録を見れば韓国にペストが広がったという証拠はなく、全国にかけてペストで命を失った人が李檗聖祖一人というのも理解できない。李檗聖祖の死亡年度は、その方の死を殉教と病死、どっちにみなすかを確定するのに重要な根拠となる。李檗聖祖の死亡年度が1785年であることを立証する他の事実は、慶州李氏の家系図で李檗聖祖を中心に兄弟、先祖、子孫たちの死亡年令をみると、31才という若い年で死んだ人は李檗聖祖しかいない。もし当時に伝染病のペストが流行ったと言えば、薬や治療方がほとんどなかったその時代に家族や村で同じ時期に死亡した人がもっといるはずだが、全然無かったということはダレ神父の教会史記録は間違っているということになる。
そして官の記録や『闢衛編』等で、李檗の‘壁’を‘蘖’と書いているが、これも間違った表記である。李檗聖祖の墓石と自筆の署名で確認されたどおり、‘檗’が正しい。
だから韓国キリスト教会の創立者である李檗聖祖の正確な人的事項は次のようである。名字は慶州李氏、号は曠菴(庵じゃなく、菴が正しい)、字は徳祖(操じゃなく、祖が正しい)、名前は檗(蘖じゃなく、檗が正しい)、生まれた年は1754年、殉教は1785年である。誕生日は知られていないが死亡した日は陰暦6月14日の夜の子の刻と丁学術の『李檗伝』に出る。生まれた所は京畿道の広州郡東部面という説と、京畿道の抱川郡昇天村との二つの説があるけど、李檗聖祖の墓とその親と兄弟たちの墓が発見された抱川の花峴里が故郷と言えるだろう。亡くなった所は、父李簿万公の自宅だったと筆者は思う。『聖教要旨』、『天主恭敬歌』、明礼坊の集会や乙巳迫害に関する記録、丁学術の『李檗伝』、丁若廟萓犬竜録、また当時の政府の『推案及鞫案』、『朝鮮王朝実録』やダレ神父の『韓国キリスト教会史』、『慶州李氏家系図』、『慶州李氏家乗』、子孫たちの伝承と権哲身、李家煥、李溥万等の資料たちは相互補完的なもので、部分を全体視せず、一面の相違点を全体的な内容と考えてもいけない。これまで筆者が調べたところでは、墓石に刻まれた内容と家族たちが生存時に編纂された家系図の記録の内容が一番正確であることを確認した。



第8章
平信徒として熱誠に司祭の職務まで隨行した韓国キリスト教会創立の先祖たち

44.韓国キリスト教会創立の先祖たちが平信徒として善意と熱誠で結成した自発的な臨時準聖職者団の聖務活動

聖職者や修道者、宣教師なしに平信徒たち自ら教理を研究して信仰共同体を形成し、その中の代表者を海外に派遣して洗礼を受け、聖職者のいない状態で臨時聖職者団を結成してソウルと地方で活動した。ミサを差し上げてゆるしの秘跡を受けるようにしたという事から、韓国キリスト教会平信徒の指導者たちがどんなに純粋で熱誠的だったのかがわかる。
彼らが挙行したミサやゆるしの秘跡がたとえ今の教会法上では無效といっても、当時の信徒たちの信仰心を強化するには非常に効果的だった。これに関する研究と分析は今準備中の『韓国民族のキリスト教信仰史』で細論する事にしよう。



第9章
韓国平信徒たちの自発的な司祭養成

45.平信徒として臨時の聖職者団の結成と活動は司祭養成の初歩

韓国キリスト教会の特徴のひとつは、平信徒たちが聖職者を養成したという事である。かつて教会初期の先祖たちはキリスト教会の法規と規定を充分に熟知していなく、臨時の準聖職者団を結成して司祭を遂行した。その内教会の規定上、司祭が合法的でないことに気が付いた。そして自発的に中断してペキンの主教に問うとそれは不法であることを知った。1789年頃からはこれ以上サクラメントを挙行しなかった。
すると信徒たちは少しずつ信仰心が弱くなり集まる事もなくなった。司祭を送ってもらえるようにペキン教会に頼んだがこれもうまくいかなかった。ペキンの教会も当時には司祭が足りなかった。しかも辛亥迫害(1791年)と乙卯迫害(1795年)、辛酉迫害(1801年)でペキン教会との連絡も難しくなった。
乙卯迫害の時に生まれた丁夏祥が成長して、ペキン教会と連絡を取り始めて聖職者の派遣を頼んだが失敗した。だが司祭の志願者を朝鮮から送れば神学教育を受けさせて司祭叙階を行って韓国に帰国させることは可能である事を知った。
ところで司祭になる要件には独身という条件があるから、未婚の青年を送らなければなかった。当時の慣習にはいわゆる‘ちびむこ’という早婚の風習があったので若い青年たちの中には結婚した人が多かった。丁若廟萓犬15才の時に結婚した。丁夏祥が16才の時にペキンへ向かったが、ペキン主教から韓国国内の教会と母や兄弟たちの面倒をみるようにと言われ帰国した。

46.金大建、崔良業、崔フランシスコ以前にも既に韓国キリスト教会が派遣した神学生たちがマカオと遼東にいた。

1813年、ペキン教区の局長神父の司牧計画報告書には、朝鮮には司祭を望む青年が沢山いるから彼らを司祭にしてペキンで活動させるという計画が成文化されている。これから見れば、国内には当時18才の丁夏祥のみならず司祭を希望する少年たちがもっといたと見られる。
1827年に韓国人神学生が神父になるためマカオへ来て神学の勉強をしていることを、当時のマカオの教皇庁管理者(administrator apostolicus)であったウンピエル(Umpierres)神父が報告した。するとローマ教皇庁の布教省ではその朝鮮人神学生を早く教え(acceler)さっそく朝鮮に帰国させた後、他の司祭志望者たちを送るようにとした。
1835年、初の朝鮮教区長だったブルギエル(Mgr.Brughier)モンシニョル(1792〜1835)が朝鮮教区の信者達に送った最初の手紙はラテン語で書いてあった。これはマカオに送られ、朝鮮人神学生たちによって朝鮮語に翻訳された後、丁夏祥会長や教徒たちに伝えられた。ブルギエルモンシニョルは死ぬ前パリの教会に送った手紙に“遼東にいる朝鮮神学生たちは素晴らしい学生たちだ。これから朝鮮人司祭養成のための神学校は気候が朝鮮と似ている遼東に立てるがいいだろう”と書いた。
従って、1836年の末に金大建、崔良業、崔フランシスコの3人の少年たちがマカオに発ったのが最初ではなく、それよりずっと前に少なくとも10年程前にかなり大勢の朝鮮人の司祭志望者たちが遼東とマカオに来ていたのは確かである。ただ彼らが叙階式を受けて司祭になれたという記録がまだ見つけられないだけだ。筆者はいつかきっと、金大建神父より先に司祭になった朝鮮の若者達が朝鮮に帰国することができず中国や東南アジア等のどこかにいたということが明らかになる事を信じている。これを明らかにする事は後進の学者たちがやるべきことであろう。

47.李承薫聖賢の孫、李在誼トマス(1807〜1868)と丁若鍾聖賢の息子の丁夏祥は、金大建(1821〜1846)、崔良業(1821〜1861)神学生より先輩の神学生で司祭から3段階下の地位であった。

丁夏祥を中心とした当時の韓国キリスト教会の平信徒たちは、司祭希望者たちを隠密に選んで教育しながら海外に行かせた。丁夏祥も司祭になるため準備しながら弟子達を選抜して教育させることに全力を尽くしていた。
その証拠として丁夏祥自身も司祭になるため結婚をせず、神学校も教授もない国内で独学にラテン語(Latina)と教理神学、倫理神学等を学んでいた。
また李承薫聖賢の孫、李在誼トマス(1807〜1868)は丁夏祥会長より10歳年上だったが、国内でラテン語と神学を学び司祭のすぐ下の段階(副司祭)までなった。
李承薫、尹有一等が西洋のキリスト教神父たちとペキンで接触しながらサクラメントを受け、聖物と書籍を持ち帰ったという事が知られてから迫害はよりひどくなった。迫害する政府の目を避けるため、丁夏祥会長と平信徒の指導者たちは出国する司祭志望生たちに関するすべての事項をあまりにも徹底的に秘密にしたあげく、今は資料が残ってない。たまたま海外の資料から金大建神父の留学以前にも韓国キリスト教会の平信徒たちは司祭希望者たちを海外に派遣したということがわかる。
1831年に朝鮮教区が設定された。1836年西洋の宣教師としては初のフランス宣教師である聖Maubant神父は、丁夏祥会長の案内で公所(神父が常駐しない小さな教会)を訪問した。そして平信徒たちがあらかじめ選抜して教育させた金大建、崔良業、崔フランシスコの少年たちをマカオに行かせるため推薦書を書いた。
1836年12月9日、当時15才の金大建、崔良業、14才の崔フランシスコ少年たちは丁夏祥会長の案内で新義州まで行き、中国人の神父と教徒たちと一緒にペキンまでいった。歩き続いて1837年の6月6日にマカオに着いた。小学校を卒業する年の少年たちは零下30度まで下がる原野を通って、30度のむし暑いマカオまで凡そ2万里の距離を6ヶ月間歩いて行った。3人の少年が皆病気にかかって一ヶ月間ひどく病んだが、金大建と崔良業は治って十年後司祭になった。しかし崔フランシスコはその後起きれず、7ヶ月以上を病んだ後世を去った。
韓国の平信徒たちの教会創立活動と共に朝鮮教区設立推進及び司祭養成の業績は、全世界どの国の教会史でも見られない実に神聖で偉大な事実である。



結論

48.自発的な真理探求と実践及び真理守護と証拠の資質に恵まれた民族精神

韓国キリスト教会は、10代と20代の青少年士たちが宣教師、聖職者なしに韓国キリスト教の発祥地である天真菴を本拠地として、10年間余り自発的な真理探求と実践、証拠と伝播の民族精神で創立された。
我々民族のこのような精神的資質は、国家と民族のためには命も捧げる精神であり、先祖と父母に親孝行する精神であり、夫のために貞節を守る女性たちの精神である。このような精神は民族精神と脈絡がつく精神だ。
現在ヨーロッパを含めた全世界のキリスト教会が、司祭と修道者の激減で大変困っているが、韓国は神学校が増設されるほどである。これは正に韓国民族の特別な恩寵である。
李檗聖祖が極寒の京畿道廣州の山を越えた真理探求と伝播の熱誠は、その講学の内容よりもっと貴いものだ。李承薫先生をペキンのキリスト教会に派遣して天学をもっと勉強してくるようにしたことも、洗礼以上に素晴らしいことだ。たとえ洗礼を受けることができずに帰って来たとしても、その努力と価値は無視できない。
自発的に臨時の準聖職者団を結成して司祭職務を遂行したことにも神々しい価値があり、自ら中断した態度は謙遜な確証だ。
尹有一をペキンに派遣した精神や、 丁夏祥がペキンへの3千里往復6千里の道を自発的に20回往復した熱誠と精神は、朝鮮教区の設定以上に偉大なことである。
朝鮮に入国した宣教師たちは自発的に入国したのではなく、丁夏祥を含めた先祖たちの努力で入国したのである。宣教師たちの入国と活動も韓国民族の自発的な準備と協力の結果なのだ。
また金大建、崔良業、崔フランシスコの幼い少年たちが司祭になるためにマカオまで2万里の距離を6ヶ月間歩いて行った精神は、司祭叙階式そのものより価値がある。
このような天主信仰精神は、聖堂設立においても聖職者たちが現場へ行く前に平信徒たちが自発的に共同体を作るという実に珍しい精神だ。
その上、殆どの海外民族の聖堂設立も聖職者が派遣される前に平信徒たちどうし信者の共同体を結成して聖職者の赴任を要請している。また聖職者が直接伝教するより、平信徒たちが未信者達を連れてくるとか、あるいは未信者達が自発的にキリスト教会に来ることもある。
このような一連の事実は我々韓国民族の神々しい宗教精神が原動力である。一言で言えば、我々先祖たちの精神を悟り神様の特別な恩寵に感謝して、ひいては世界人類を救うために貢献しなければならない。。
このような恩寵は他の国や民族の教会史では見られない。韓国民族のこのような精神的資質は韓国キリスト教会だけのためではなく、全アジアの福音化のため、ひいては全世界教会のためのものである。神様が我々を特別に呼んでいらっしゃることに悟り、韓国民族に与えられたこの使命をつくすためどんな難関も勇ましく乗りこえ、一層強化・発展させるべきだ。天主により無限な光栄を差し上げ、全世界の救援事業に韓国民族もその役割を果たそう。