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創立先祖 略傳


端書き

約200年前、我々の信仰の祖先達が宣教師なしに成し遂げた韓国天主教の創立偉業
については、歴代のローマの教皇を始め、多くの人々から驚嘆と尊敬されているが、彼らの死についてはいろいろと見解が分かれており、殉教、背教、毒殺、打殺し、あるいは病死だの拷問死だのと、一部の歴史家の間で論争が行われている。
論争はどうであろうと 犠牲されたその方たちが韓国天主教会の創立者であることは間違いない。すなわち、その方たちの生涯にわたっての業績と徳行の実りは、我々に模範の対象であり、尊敬と感謝するのみである。
ただ、その方たちの死について、どんな拷問を受け、捜査官との間でどんな言葉を交わし、どんな死に方であったかなどについては、史家たちの判断と解釈が完全に一致するとは限らない。
ところで、朝鮮時代のカトリックの迫害が盛んだった時代に、それによって亡くなった信仰人方々の死についての歴史に触れる時、おろそかになりがちな点を想起してみることにしよう。それは、信仰人たちを刑罰し、迫害していた者らを善良で正当な人間として受け止めてはいけないことである。彼らは真理を認めまいと刑罰を加えたり、懐柔したりしながら、信仰人たちを拒否し憎悪していた、非常に険悪で虚偽捏造を茶飯事にする者であった。そういうわけで我々にこういう迫害者たちの全ての記録を確かな物として受け止める義務なんかまったくないのである。なぜならば、彼らの言葉、行為、文などが正しいとも思えないし、その殆どが不純なものばかりだからである。
更に、迫害者たちは真理を語る信仰人たちにうそつきだの詐欺師だのと決め付け、真理を諦めさせようとあらゆる手段を尽した悪者である。なのに一部の史家たちは聖書に出ている主のお言葉は信じようとしないくせに、本当のうそつきである迫害者たちの言葉と記録はまるで天下の真理でもあるかのように思っているのである。
昔も今も拷問捜査の後は捏造された虚偽が数多くあるということは誰もが否定しない。李氏朝鮮500年間逆賊を企てたと告げさせられ、遠島に流されたり、毒薬を飲まされたりしていた、数多い逆賊のうち、本当の逆賊はいったい何人なのか歴史に触れている我々に疑問が残る。しかも、200年前の朝鮮社会を今日と同様に捉えるのは無理であろう。当時は儒教思想で孝行を最高の徳行とし、親の言いつけは絶対的であった。
朝鮮天主教が芽生えていた時の王であった正祖の父親、思悼世子は実の父である英祖に、米ぴつ十日間監禁され、宮廷のど真ん中で餓死された(1762年)事件もあった。このように政府の勢道家たちは政敵や思想家にたいしては中傷と逆賊捏造を平気で行っていた。
天主教会が朝鮮に布教されると、これを嫌い懸念していた迫害者たちは、カトリックに関心を持って、アダムシャル神父と親交を結んで帰国した昭顯世子を毒殺してから病死と処理し(1645年)、カトリックに好意を持っている学者出身の初代朝鮮信者代表を尊重していた正祖王も毒殺して病死と処したが、今は皆明らかにされている。
朝鮮天主教の創立者、李檗聖祖も隔離監禁中に断食餓死されたが、一説では毒殺、また疫病で病死されたというふうに噂されているし(1785年)、権日身聖賢を杖刑を与えた後、島流しの途中、初の宿で杖毒(杖刑を受けてできた傷の毒)死したというが、実は、刺客によって殺されたという疑惑も追い払えないし(1792年)、権哲身大学者は、刑曹にて死刑の判決が下される前に、65歳である老学者を他殺してから(1801年)判決文を捏造するというとんでもない惨劇も自行され、李承薫聖賢の場合も、迫害者たちは李承薫聖賢にカトリック放棄を無理やりに虚偽にでも捏造発表させて、自分達の勝利を世に知らせなければならなかったので、信仰を諦めたと嘘の報告を宣伝をする一方で、どうしても天主教は捨てられないという丁若鐘聖賢とともに直ちに残忍に刑罰し斬首した。迫害者たちが捏造した[李承薫信仰放棄]という内容に否定する者に対する斬首刑も容赦なくされた(1801年)。
韓国の歴史上、外来宗教の国内創始者である新羅時代の仏教のイチャドン殉教(527年)、韓国土着的な宗教の東学の創始者、崔 濟愚、崔 時享など数万人にのぼる東学教徒たちの殉教(1864―1898年)、これまた数万人に至る朝鮮カトリック信者たちの殉教(1785―1866年)、政治的な分野である高麗末の鄭圃隱の死(1392)、朝鮮王朝時代初期の死六臣の殉教忠節(1455)、倭政の時、多くの独立闘士たちと民族指導者たちの殉国忠節(1910―1945年)、現在も南北両方の未転向長期囚人たちの問題において、拷問致死でも曲げることのできない彼らの意志を見たり、平民の愚夫愚婦たちの殉教と韓国人ならではの気迫と体質を見たりしても、仙人道骨形に革命家的偉人達である韓国天主教会創立祖先たちの信仰放棄や背教というのは、その方たちにとっても本質的に不可能であり、理解し難い疑惑だと言わざるをえない。
“実を見て木を知れ”と主のお言葉のように私達が重要視なければならないことは“結果”である。我々の祖先たちが様々な刑罰を受けて、どんな結果になったのか、カトリック信仰と係って懐を肥やしたのか、官職を得たのか、寿命が延びたのか、でなければ死んだのか、つまり、結果がどうなっているかを考えなければならない。虚偽捏造と隠匿で事実の正しい判断が難しい時は“結果”を見て理解し、“結果”に基づいて評価し、判断するのが最も確かで合理的だと思う。
天主と教会のために逮捕されたり、監禁されたりして迫害にあった韓国天主教会創立祖先たちが残した結果は死、つまり、勇ましい殉教のみであり、このような殉教の結果は、いわゆる祖先たちが流した血は、そのまま我々に魂の肥やしになって今日の韓国天主教会が奇跡的に成長しているという事実自体である。だから、私達はどんな言葉よりも、文章よりも、生存よりもなにより、彼らの大事な死で証明された教会創立祖先達の信仰と殉教に感謝と尊敬をするとともにそれらを手本にし、努力を続けなければならない。
その方たちの生活と業績と殉教に関して、韓国語と英語でより詳しい伝記をまとめているため、本書ではまず簡潔に要約した。

2000年6月24日
韓国天主教会創立祖先諡福諡聖推進委員会
総務ビョンキヨン神父

目次

端書き



第1章 韓国天主教会創立者 曠菴 • 李檗聖祖 ∕ 5

第2章 韓国天主教会創立主役 稷菴 • 権日身聖賢 ∕ 12

第3章 韓国天主教会創立主役 鹿庵 • 権哲身聖賢 ∕ 19

第4章 韓国天主教会創立主役 蔓川 • 李承薫聖賢 ∕ 24

第5章 韓国天主教会創立主役 選庵 • 丁若鐘聖賢 ∕ 30










韓国天主教会創立者

パプテスマ • ヨハン曠菴 • 李이檗聖祖


李檗聖祖は、1754年京畿道の抱川郡でキョンジュ李氏の李薄萬を父に、チョンジュ漢氏を母にして、6人兄弟の内、次男として生まれ、一時は京畿道 廣州郡トンブ面コンダン山の下、ウィットミで暮らしたこともある。
幼い頃から聡明で、元老大学者、星湖 • 李瀷先生が幼い李檗を見て‘この子はこれからきっと偉い人になるだろう’と予言なさった。
聖祖は、5歳にしてもうもの心がつき、7歳の時に経書を読み上げ、19歳の時はクォンサンボクの文集を編纂する一方で、‘天学考’、‘上天道’という文を作って近所にある奉先寺に寄贈した。25歳の頃、李瀷先生の学風を引き継ごうとする士たちの中で丁若銓、李承薫、権相問などとともに学問を研究して討論したが、この時既に李檗聖祖は、天学道理を悟って深く信仰していた。特に天学に関する書籍は、高祖父のイキョンサンが昭顯世子のお共で8年間中国から帰国する際にアダムシャル神父からカトリック道理を聞いて中国人のカトリック信者5人を宦官として連れて帰ったが、その時持って帰ったカトリックの本が家に伝えられてきた物であった。
李 檗聖祖は背が8尺であり、片手で銑鉄100キロも持てるし、堂々たる風采で精神的な才能と資質に優れ、特に口は達者で、勢い良く流れる川に喩えられるほどであった。
1779年己亥年の12月(旧暦)、ある寺にて、丁若銓、金原星、権相学、李承薫、丁若鐘、李寵億、丁若鼻権日身などとともに講学会が開催されていると聞いて、李檗聖祖は百里余りの雪道を歩いて権哲身聖賢がよく寓居していたチュオ寺に夜遅く着いたが、なんと講学会はエンザ山の向こうの天真庵 という、もう廃れていてお坊さんもあまり使わないところで開かれていると聞いて、そのままエンザン山を越えて天真庵に至り、ろうそくを灯して学者たちと経書を談論なさった。何日も続いた講学会で学者達は、李檗聖祖の論証を通じてカトリックの道理を悟ってまた信じ、学んだことを直ちに実践した。この時、李檗聖祖は聖教要旨を下筆され、天主恭敬歌を作り、丁若鐘は十戒命歌を作った。なお七日ごとに天主恭敬に捧げなければならぬことも分っていたが、その頃の韓国には曜日がまだなかったし、また曜日というのも知らなかったので旧暦で毎月七日、十四日、二十一日、二十八日を主日と決め、その日は一日中絶食、禁肉、罷工(主日と大祝日に肉体労働を禁ずること)、祈願、経書、潜心で過ごした。この講学会を通じて李檗聖祖は天学をカトリックに、天主学を天主教に、つまり学問的な知識を宗教的な信仰に発展させたのである。
1783年の秋、 李檗聖祖は何年間に渡っての試みと努力の末に、遂に李承薫聖賢を北京の天主教会に派遣することを決め“君が北京へ行くようになったことは天主が韓国を愛し、救援してくださるという意味である。北京へ行ったらすぐに天主堂を尋ねて西洋人たちと相談して全てのことを細かく聞いて、その教理を深く学び、その宗教の礼拝儀式を詳しく調べて、必要な書籍を持ってきてくれ。生と死の偉大な問題と永遠の問題が君の肩にかかっているから軽率な行動は控えてくれたまえ。”と念を押した。李承薫はこれを大師匠の言いつけだとしっかり胸に刻んで、洗礼と聖書、聖物購入など、与えられた使命を果たして帰国し、韓国天主教会発展の基盤をそろったのである。
1784年、李承薫聖賢が北京で洗礼を受けて帰国すると、李檗聖祖は朝鮮天主教会をより強めるために権哲身と権日身兄弟たちを入教させ、金範禹、崔昌顯、崔仁吉、金宗教などもすぐ入教させた。パプテスマ • ヨハン 李檗聖祖と李承薫ペトロと権日身プランチスコサベリオ、この3人の学者たちは自分達が開拓した新しい宗教をすべての時に利用して伝えながら、同胞たちの目に信仰の光明を照らしてあげようと努めた。その時までは福音を布教するのに何の差し支えなく行われていた。李檗聖祖は多くの両班たちにも伝教して入教させたが、これに強く反対する知性人たちとの討論と論争を避けることはできなかった。
高名な学者で評判が高かった李家煥は、カトリックのことを聞いて“これは非常に大変なことだ。あの外国教理の筋道は通らなくはないが、このままではいられない。私が彼を正しく導こう”と言ったそうだ。いよいよ討論の日にちが決まり、二人の学者の友達と好事家の群れがこのすごい討論を参観しようと李檗聖祖の家に集まった。三日間続いた討論会は結局、李家煥の完全な敗北に終った。“この道理は立派で真理である。しかし、これに従う人々に不幸を齎すであろう。どうすればいいだろうか。”と語って李家煥は帰り、それからはカトリックについて二度と口を出すことも関係することもなかったそうだ。二回目の討論会は、県監である李基譲がきたが彼もやはり
曠菴•李檗聖祖の大勝で幕を閉じ、ソウルの士たちは動揺して李檗聖祖の方に傾き始めた。
1785年の早春、やがて最初のカトリック迫害が始まった。1年間にわたって約500人の入教洗礼者を出した李檗聖祖の高弟たちであった学者たちは、明礼坊(今の明洞)、
金範禹先生の家で集会を開いていた。教会礼節挙行のために青色の衣服に正装した李檗聖祖が壁に背中を向けて座っており、学者たちは李檗聖祖のまわりにひざまずき、手には本を持って、厳粛な姿勢で講論と教理解説を開いて一緒に祈っていた。その中には1年前に北京天主教会に派遣された李承薫、碩学の権日身、息子の権相問、丁若匹箸修侶残錣任△觴秕發伴竡堯△修粒阿勃綻諮、崔仁吉、金宗教、池璜、金範禹、李寵億等韓国天主教会創立の柱のような人たちが集まっていた。この時、秋曹禁吏(今の刑事)がいきなり入ってきて聖物と聖書を没収して行くと同時に家主で衆人階級の金範禹先生を逮捕し、他の人は両班身分の学者たちなので、そのまま家に帰らせた。権日身聖賢が何人かの両班たちと一緒に秋曹判事を尋ねて、金範禹とともに罰を受けることを申し出たが、秋曹判事はこの両班学者たちには家に帰るようと説得して、金範禹だけを鞭を加え監獄に閉じ込めた。彼らには両班たちを罰する方法は別に考えており、それは当時の社会で同じ両班たちの門中の勢力を利用することである。
それで両班家の門中ごとに宗親会議を開くことにし、天学を糾弾する通文が回され、
ソウルの4大門内と戸外、そして川上地域と川下地域の多くの両班家にこの通文を回す責任者がいるほどであった。その中で慶州李氏の門中会議の反発が最も激しかった。
そして李檗聖祖の父、李薄萬は門中会議にしょっちゅう呼ばれて行っては、恥辱で侮辱的な問責にあわなければならなかった。“息子李檗聖祖の天学運動を阻め、さもなければ系図から取り外してしまうから慶州李氏と名乗るのは止めてくれ”ということであった。系図で削除されるということは両班から常民になることなので、一瞬で脱冠削職に敗家亡身することであった。李檗聖祖の父、李薄萬は特に面子と威信を重んじる人であった。彼だけはなく当時の韓国の両班たちは大概がそうであった。李薄萬は息子の李檗聖祖を呼んで、あやしたり、叱ったり、脅かしたりしてあらゆる手を用いて天学運動を止めることと、門中の目上の方々にいちいち丁寧に謝れと勧告したが、聞かなかった。門中では、平昌李氏家での李承薫聖賢と羅州丁家での丁若匹覆匹ちゃんと謝ったということを聞いて、謝りさえしない李檗聖祖の態度に一層激怒するばかりであった。そしてソウル市内の両班たちの通文があっちこっちに飛び散り、糾弾と反対集会が頻繁に起こると、慶州李氏の門中はよけい激しくなった。李薄萬はあらゆる手段と方法でも全然屈しない息子の固い心構えと意志を見て、柱に紐をかけ首を吊って自殺しようとした。李薄萬が首を吊ろうとすると、母と兄弟、親戚と友人が皆で李檗聖祖に飛び掛かり、父の姿を指差しながら大声で怒鳴った。特に母は息子の李檗聖祖に、“天学がいくら良い道だとしても、自分の親に首を吊らせるまでするのであれば、誰が納得するのか。父が首を吊って死んでも天学運動をしようというのか。”と言いながら哀願と嘆息で叫んだそうだ。李檗聖祖も当惑な気持ちを押さえ切れなかった。当時の韓国社会は親孝行が社会倫理の第一であった。李檗聖祖はまず父の死を阻むために“それでは出かけません”と言ったが、それは家と門中をとりあえず落ち着くまでのつもりでおっしゃったのである。これがいわゆる二つの意味を持っている言葉だと伝われている。李薄萬は自殺企図を中断して、息子が天学を止めると言ったことを門中に知らせた。
しかし、門中ではこれを信用せずに李薄萬に李檗聖祖自分で直接門中会議に出ることを要求したが、李檗聖祖は父に“門中会議に出て天主学を排斥することや止めると言う代わりに、むしろ宗親たちに天主教を納得させて、慶州李氏の門中が皆率先して天主を敬わなければならない理由を教えて来ます。”と言ったそうだ。李薄萬は、既に息子が天学運動を止めることにしたと門中に知らせてあったので慌てふためいた。李薄萬は息子の外出を禁止して門中の方達に人を遣って、息子が急に病気で寝込み、門中会議に出られないのでご了承くださいとありふれた言い訳とこれからは決して息子が天主学をしないことを念を入れて伝えた。
しかし、門中会議では直接文にて、天主学をしないことを明白にしろ、と要求した。
父が息子の李檗聖祖に、筆で天主学を諦めると書いて宗親会に送ることを命じると、李檗聖祖が(霊得敬神記)という文を書き出した。これは天主恭敬の必要性、方法、手順がわかりやすく書いてある内容だった。李薄萬はこの文を見て激怒し、勘当するとまで言ったそうだ。仕方なく李薄萬は門中に息子が文も書けないくらい病勢がひどく、李檗がもう天主学を止めたのだから信じてくれるように更に懇請した。
しかし、宗親会ではよけい疑って激怒した。そんなに元気で闊達な曠菴 • 李檗 聖祖がどんな病気なのかは知らないが、急に文を書くこともできないくらいに病んでいるということは信用出来ないので、門中会議で代表をそちらによこすから、その代表に確約をしてくれ、ということだった。慌てた李薄萬は李檗聖祖を別堂に移して門戸に釘を打ち、家来にしっかりと見張るように頼んでから、息子の李檗が天主学をして天罰が当たり、熱病(俗称、伝染病)にかかり、家族達も伝染されるのではないかと思い、出入りを禁止していると言った。
カトリック信者たちが李檗聖祖を尋ねてきても面会が不可能で、李薄萬は家来にしっかり門を守り、誰一人中に入れないようにと強硬に頼んだ。
李檗聖祖は時が来たことを感じ、風呂に入ってきれいに着替えて衣冠を直して、絶食に入り、寝ないでずっとお祈りと黙想にだけ専念した。当時の韓国礼儀は、親が激怒した場合、子は何日間も食事をしないことはよくあることだった。天主密験記3冊がこの時著述されたという説もあるし、2、3ヵ月間門中会議と闘いながら家に監禁されている間に執筆されたという説もある。とにかく、最後に自ら絶食して静かにお祈りにだけ集中して天主を思いながら瞑想にふけて、断食15日目に入ると完全に気力を尽してその座で去った。1785年6月14日(旧暦)の夜12時だったと丁学術の李檗伝は伝えている。
しかし門中では、当時の漢陽の士たちがカトリックに集中していたので李檗聖祖をそのまま放っておくと、いつか慶州李氏の門中がとんだ災難に遭うかも知れないという理由から李檗聖祖を毒殺したという説もあるが、1979年6月21日改葬の時、死体が青黒く乾燥していて歯が黒く変色されていることを見て、当時のカトリック大学の解剖学主任教授クォンフンシク博士も検屍で毒殺の可能性を強調した。いずれにせよ李檗聖祖が信仰のために殉教したことだけは間違いないことである。
李檗聖祖が去った時、姻戚だった丁若廟萓犬葬式に参加して次のような詩を作った。“仙鶴が人の地に降り立ち屹然と神仙の面影を誇る 真白き羽は雪の如く 鶏や家鴨の妬みも激し 鳴き声は朗々と九天を震わせ 出ずる音麗しく清らかに風塵を払う 秋訪れる至や忽然と飛び去る 限りなく悲しみ嘆くとも如可にせん”
かつて朝鮮教区の第5代教区長ダブルィアン主教は、彼の朝鮮殉教史備忘記の端書きで、“真の意味の朝鮮天主教会歴史は、李檗のあの素晴らしい講学で始められた”と記録しており、韓国天主教会創立者李檗聖祖の役割と位置を強調し、丁若匹癲藩檗が天主教会を伝えた”と記録していたし、金大建神父も朝鮮天主教会創立において李檗博士の役割を先に扱っている。






韓國天主覚鯀藁者

曠 菴 李 檗 略  (カワン アム イ ビョク)
卞基榮 神父 著
文昭詠 譯

韓國天主垣鎖聖硏究院

序文に代えて
李檗聖祖は, 今から二百余年前, わが國に福音の道を拓いた先覺者でありました.
當時は儒海了拉曚垢觴厥鬚任靴燭,彼は中國カトリック書籍を讀んで,自ら信仰に目覺めました. 十代の時と言われます.
そして,二十代には, 信者五百余りを擁するれっきとしたカトリック覚鬚鯀藁しました. 司祭も無い,平信徒ばかりの,世にも不思議な覚鬚任靴. 世界覚鮖砲北い世つて類を見ない,自生覚鬚世辰燭里任.
このたび,遲まきながら《李檗略 》の日譯版が刊行されるのをうれしく思います.日本のみなさんに廣く讀まされることを心から望む次第です.

一九九0年 三月三十日

韓國天主鰍ぞ傭賄撃宙神三莢衆儖會

主任神父 卞基榮(ビョン キ ヨン)









生い立ち/3
學問修業と天學硏究/4
天眞菴講學會での天學論 と信仰修練/8
李承發遼無覚鯒標/13
獲硏鑽と傳導活動/16
未信者學者たちとの獲討論/19
韓國覚鯀藁の基礎を固める/21
韓國覚鮑能蕕亮難,乙巳迫害/23
神のみもとに/26



生い立ち

聖祖李檗は,一七五四年,李王朝の英祖三十年,今の京畿(キョンキ)道 廣州(クワンジュ)郡ウィッドウミで,李富萬の六人きょうだいのうち,次男として生れた.
李檗の家柄は,高麗末期の名臣かつ大學者としていまなお歷史にその名を留める,益齊(イクチェ,雅號) 李■齊■賢(イゼヒョン)の後裔で,李王朝に入ってからも數多い文官を輩出した名門であった.李檗の曾祖父の時から武官に轉籍し,以來,三代にわたる武人家門として父も將軍職に就いていた.
李檗が生れた時,村では不思議なうわさが立った.彼が生まれたその時刻に,えもいわれぬ神秘なふんいきが村全 をつつみ覆ったというのである.村人らは,李將軍家のご次男坊こそ將來大人物になる兆だと言い合った.
うわさどおり,彼は幼い時から非凡な子であった. 眉目秀麗な容貌は見る人をうっとりさせ,ほのかにただよう氣品は子どものものとは思えぬ威嚴に充ちていた.大きな瞳はあくまでも罎澄み,みつめられる人の心を隅隅までもきれいの拭い取るようであった.
聰明さは,李王朝全時代にかけての大碩學,星湖(ソンホ) 李瀷(イイク)をして,■この子は必ず,大器になるであろう■といわせるほどであった.
彼は七才のごろから經書を讀み,その大儀に通じた.弁も優れて,かれがくりひろげる理路整然とした論說に,人人はただ 然とするのみであった.
およそ,年に合わない,彼のこのような聰明さ,說得力,天性の氣品などは,福音の使徒としてこの地に彼を送った神のとくべつな賜物であった.



學問修業と天學硏究

李檗の父は,非凡な息子に大きな夢を託した.長男もすでに武官に道を步ませていたが,この次男こそ智仁勇を兼ね備えた武人になるだろうと期待していた.彼は,學習にのみはげむ息子に武藝を習わせようとした.しかし,李檗は父の命に從わながった.シャルル ダルレ神父は一八七二年に著わした《韓國 カトリック覚鮖法佞涼罎如ぜ,里茲Δ暴颪い討い襦

神の攝理が朝鮮に福音を傳えるため使われた道具は,檗という李祖(イトクジョ 祖は字)だった.-中略- 檗は精神的にも肉體的にも優れた資質を持っていたので,幼い時から,父は彼の出世を夢みて弓術や騎馬術などを習わせようとした.しかし少年は頑强に拒みながら,「死んでもそのようなことはしない」といいはった.

李檗は,その後もひたすら學問に勵み,順菴(スンアム) 安鼎福(アンジョンボク)の下で修學した.李瀷(イイク)の高弟であった安鼎福は王世孫の師傳として仕えるほどの大學者だった.かれの下で李檗の學問は否が上にも向上した.〈朝鮮實學〉の集大成者としてその名をほこる茶山(ダサン) 丁若鼻淵船腑鵐筌ヨン)は,李檗の亡き後,學問上の疑問が起るたびに彼の學を追慕しながら泣いたと述懷している.
ダルレ神父もまた,次のように書いている.

檗は背が高くがん强な愬に成長した.《朝鮮傳記》にこのような記錄がある.「彼は背丈が八尺で片手で百斤の重さのものを持ち上げることができた.彼の堂堂たる風采は衆人の注目を集めたが,それよりもかれの心と精神的才能はひときわかがやいており,その弁舌は滔滔と流れる河の奔流にも似ていた.彼はあらゆる問題を,どこまでも深く掘り下げ究明しようと努めた.
經書を學ぶ時にも,幼いごろから,文學の中に潛む,かくれた神秘的意味を探究しようとする習性があった.」

檗は,本から學ぶだけでは滿足せず,自分の學習を指導してくれると思われるすべての學者たちと交 際した.
彼は冗談が好きで, 法のこまごまとした規則にはそれほど拘らなかった.しかし,自分を學者らしく見せようとするわざとらしい威嚴を飾らなかったとはいえ,その立ち居振る舞いには,なんともいえない高尙な氣風が渗み出ていた.
このようなすばらしい資質が,この世でのかがやかしい將來を彼に約束していたが,ちょうどその時,神は慈愛に溢れる視線を彼におくられた.

さて,韓國にはかなり昔から,中國のカトリック獲書が入ってきており,數名の學者がこの獲書に興味をもっていくらか硏究していた. ただ,彼らはこの書籍を單なる學問的知識の對象として受け入れ,ひとつの珍しい學說にたいする好奇心を充たす程度に止まっていた.
李檗も,〈天學〉といわれていたその學問に魅せられた一人だった.その獲の深い意味を心眼を通してじっくり吟味した末,ついに宗嚇悟り至ったのである. 「イエズス」とか「キリスト」という名はおろか,「カトリック」という宗殻召気聞いたことのない彼が,ぜんぜん未知の世界を相手にひとりすもうを取ったあげく,そこから眞理を發見し,神との出會いを得たというのは,いったいどういうことなのだろうか.
人間的には理解しがたいことである

彼を神のもとに導いた書籍は,特に,《天學初函》という中國の全集であった.この,五二券から成る尨大な全集にはマテオ リッチ神父の《天主實義》やディダクス バントス神父の《七克》をはじめ,數多いカトリックの著書が收められていた.その昔,彼の五代前にさかのぼる先祖 李慶相(イキョンサン)ガ中國から持ち歸ったものだった.
李慶相は,人質として彼の地に連れていかれる昭顯(ソヒョン)世子に修行し,その後,北京で世子と共にカトリック覚鬚暴估りする幸運に惠まれた.歸國の折り昭顯世子は神父を一人送ってくれるよう願ったが,中國覚鬚砲呂修譴法,困鞫瑛気なかった.アダム シャル神父は,中國皇帝にしんせいして,カトリックに歸依した五人の 官と數名の宮女をかわりに送る次善策を講じる一方,福音傳播に役立ついろいろな聖物や書物を世子に贈った.李慶相も《天學初函》を贈られた.
しかし,韓國での福音傳播は,政敵の陰謀に券き まれた昭顯世子の不慮の死によって夢と歸した.中國 官と宮女らは本國に送還され,聖物や書物は火に燒かれた.その渦中で,李慶相の《天學初函》は家の書庫の奧底に隱された.そして,李檗の手で日の目を見るまで一世紀余りの長い其間,ほこりを被ったままに放られた.計り知れない神の攝理とはたぶんこういうことをさすのであろう.
李檗は,すでに十九才の年に《天學考》という論文を書くまでになっていた.彼は親友の文集を編集する際,この論文を卷末に收錄したという.また,《上天道》という題の詩を詠んで額に收め附近のお寺に揚げさせたりしたとも えられる.
李檗の孤獨な天學探究は長い月日にわたって續けられた.彼は,あらゆるつてを通して國中のカトリック書籍をさがしだした.自らの學問的素養を土台に,獲の一つ一つを經學思想と照し合わせながら,限りない演繹と歸納の作業をくり返した.そのような過程の中で,彼は,愛の實 としてのデウス(神)認識  に到達していった.同時に,天學は人間の手で成る學問ではなく,神の歷史の記錄であり,神がいとおしんで止まない子らに送る福音のメッセ−ジであることを悟ったのである.


天眞菴(チョンジンアム)講學會での天學論 と信仰修練

鶯子峰の典雅な容姿を眞向いに仰ぐ山中溪谷.今は聖祖李檗を含めて韓國カトリック覚鯀藁先祖五位の墓域となっている小さな盆地に<天眞菴>という名の 小寺がひっそりと立っていた.庭の岩間からは羶紊湧き出で,すぐその傍をまた,罎蕕な水がせせらぎをなし流れていた.ここは正に,世俗のほこりをきれいに洗い流し,眞理の明かりを燈したいと願う向學の徒には,またとない學問修練の場でもあった.

正祖三年の一七七九年,眞冬にも,ここでは鹿庵(ノクアム) 權哲身(クオンチョルシン)の指導する講習會が催されていた.受講者は,丁若銓(チョンヤクチョン),若鐘(ヤクジョン),若鼻淵筌ヨン)兄弟,李承癲淵ぅ好鵐侫鵝法李寵億(イチョンオク),金源星(キムウオソン),權相學(クンサンハク)などの愬學徒たちで,權日身(クンイルシン)が兄を補佐していた.彼らはみな,李檗とも親しい同學の友でもあった.
眞白い雪が降りしきる夜,彼らは思いがけなくこの友の訪問を受けたのである.
それまで,カトリックの眞理に目覺めてからの李檗は,靜かな山水を訪ねながら默想と祈禱に勵み,心の中にふくらみ えはじめた信仰に芽を育んできていた.そしてその夜,友人學徒たちに信仰を分け えようと,雪降る夜の遠路も厭わずにやってきたのであった.

檗は(講習會の)知らせをうけ非常に喜んで,自分も行こうとした.時は冬で,道は雪に覆われている上,寺までは百余里(日本では四百余里)もあった.だが彼は,それぐらいの困難にめげなかった.直ちに出發し,人が通ったこともないような險しい道を勇敢に步いていった.
旅行の目的地まではもう一息というところまで來た時,夜になった.彼は氣がせいていたのでそのまま道を急ぎ,ついに子の刻ごろ,あるお寺にたどり着いた.しかし,自分が道をまちがえたことと,訪ねる寺はこの山を越したむこうがわの半ばぐらいにあると聞かされた時,彼の失望はいかほどだったろうか.その山は高く,雪は積り,隨所に虎の洞穴があったのである.何のこれしき,恐れるものか.檗は寺僧たちを起こし同行させた.猛獸の襲擊から身を守るため,先端に鐵串を取り付けたこんぼうを片手に,暗い夜道を促し,とうとう望む目的地に着いた.
檗とその一行の到着は,山に埋もれた寂しいこの寺の人たちを驚かせた.いったいどういう譯でこの時ならぬ夜半に,このように大勢の客が押しかけてきたのか見 もつかなかった.しかしすぐ,すべては明らかになり,怖さは喜びにかわった.彼らは,懷かしい巡り合いがもたらした感激を分け合うのに夜が明けるのも知らなかった.(ダルレ)

この夜のことを丁若匹癲崟稈罅李檗が夜に至る.燭を張って經を談ず」と,書き紀している.
李檗は自ら悟った新しい眞理について語り,天學にぜんぜん疎きはなかった彼らも熱心に耳を避けた.彼らは,李檗が携えてきた本の包みをほどいて,李檗の主張を檢討することに合意する.
彼らの天學硏究は次のように進められていった.

硏究會は十余日わたった.その間,天,世,人性など,最も重要な問題を探求した.先人學者たちのすべての意見を引き出して,一つ一つ討議した.その次には,聖賢たちの倫理書を硏究した.最後に,西洋の宣鎧佞燭舛漢文で書き表した,哲學,數學,宗海柾陲垢觸駟を檢討し,その探い意味を解讀するために,できる限りの注意を集中した. −中略−
その科學書籍の中には,宗海僚步的槪論も數冊あった.それらの本は,神の存在と攝理,靈魂の神靈性と不滅性,七罪種をそれに對抗する行で克服することにようって品行を磨く方法などを述べていた. 中國書の暗く,多くは矛盾した學說に慣れている彼らは,正直かつ眞理を窮めたいと熱望する人たちであったので,カトリックの道理には,美しく,理にかなう偉大な何かがあるのをすぐ感じした.完全な知識を得るには,まだその說明が充分ではなかったが,彼らの心を動かし,その精神を照すしは充分であった.

直ちに彼らは新しい宗海漣海┐髻っ里蠅┐燭海箸世韻任瞠蛹しはじめ,每朝夕には欠かさず祈りを上げた.七日のうち一日は,神を敬うことにだけ捧げなければならないことを知ってからは,每月の七日,十四日,二十一日,二十八日をその日の定め, 他の仕事をいっさい休んで默想に專念した.また,その日は肉食を避けた.これらはみな,きわめてひそやかに行かなわれた.(ダルレ)

こうして,天眞菴講學會は,ついに信仰修練會と 貌した.李檗はそれらの修練を指導し,獲を講じるかたわら,その合間に《聖獲彙蓮佞箸いΠ貂の本を著した.神の天地創造からイエズスの昇天に至るまでの聖書の筋に沿って獲を說き明らかし,人の步む道をこんこんと論している內容の本である.この外,デウスを える《天主恭敬歌》という歌を作た.後日,初期覚鬚鮖戮┐訝譴琉譴弔箸覆訝若鍾も,この時,《十誡命歌》 を作ている.
なにはさておき,この期間を通して李檗が成し遂げた偉業は,學問の領域に止まっている〈天學〉を,〈天主(カトリックの韓國呼稱.天主は天帝と同義語〉という,宗海亮仝気望魂杳づ犬気擦燭海箸任△辰拭ァ         ヽ討發覆ぜ笋譴疹寺は,神の眞理のメッセジを 受する榮光の場となり,韓國カトリック覚鬚料藁地として,後世にその名をほこるようになった.だれが付けたのか.〈天眞菴(チョンジンアム)〉という名にも攝理の神秘を見るようで肅然となる



李承癲淵ぅ好鵐侫鵝砲遼無覚鯒標

天眞菴の集い以後,數年がすぎた.
李檗は,百日を一日ごとく,知人を訪ねて複音 派の努めていた.彼はそのためには,どんな小さな機會でも逃がさなかった.船上の獲討論もその例の一つである.
一七八三年 ,夏のはじめ,彼は丁若銓, 若彪残錣函ぅ愁Ε襪帽圓ため漢江を
下っていた.船には彼らの外にも大勢の客が乘っていたので,李檗はその人たちに聞かせようと,若銓, 若彪残錣枇獲討をひろげる.彼らは順に, デウスの存在と唯一性,天地創造,靈魂の不滅性,來世に下りる賞と罰などの問題をわかりやすい言葉で明快に明かしてゆき,人たちの耳をそばだたせた.
ダルレ神父は,「乘客たちは,そのように美しく慰安になる眞理をはじめて聞いて,驚きかつ恍惚とした」と書いており,丁若匹眛韻犬茲Δ箆辰魑している.
李檗は, 道の一方,獲の硏究のもたゆまぬ努力を注ぎ,新しい本をさがし求めたが容易にかなえられなかった.彼はたびたび壁に突き たり,自身の獲知識が,神の道に從うには遙かに及ばないことを覺っては落 するのだった.胸は渴きにうずき,心は北京に走った. 
神は,これ以上,李檗の渴望を見捨てておかれず,助けの手を伸べられた.
李承發,中國へ行く便節 の一人に任命された彼の父に隨行することになったのである.その時代の文獻によれば,李檗は小躍りせんばかりに喜んで李承發鯔ね,次のように言った.

君が北京へ行くようになったのは,正しい獲を學ぶようにと,神がわれらに えたまう貴重な機會だ.眞の聖人たちの獲や,萬物の創造主で在りおわすデウスを敬う正しい方式は,西洋人たちによって最も高い境地に至っている.その道理無くしては,われらは何事も成しえず,それ無くしても自らの心と自らの性格を正すことができない.それ無くして,君主と臣民の互いに異なる本分をでのように見分けられよう.それ無くしても,天地創造とか,南北極の
原理とか,天 の規則的運行をどうして知りえよう.そして,天使と惡神の區別や,この世の始めと終り,靈魂と肉身の結合,また贖罪のためのキリストの降誕や,善人は天國でほうびをもらい,惡人は地獄で罰を受けることなど,このすべてのことをわれらはわかることができないのだ.   -中略-
君が北京へ行くようになったのは,デウスがわが國をかれんに思い召して救い助けようとなさる兆だ.北京に着いたらすぐ覚鬚鯔ねたまえ.そして西洋人學者たちに會って一切のことを聞きただし,また,彼らと獲を深く堀り下げて究める一方,その宗海里△蕕罎襦 々壜を詳しく調べて必要な本を持ってきたまえ.生と死と靈魂の大事が君の手にあるのを忘れず,何よりも輕率な行動を愼むように.

じゆんじゆんと說く,こうした目上の友の言葉,李承發龍擦某爾染み んだ.彼は,「師の言葉のように」心に刻み,任された仕事を全力をつくして全うすることを約束する.
李承發蓮ぐ貅携三年末ごろ,北京に到着した.彼は指示されたとおり,「西洋人學者」がおるカトリック聖堂を尋ねていった.自らやってきて海┐鮴舛Αぬ召眞里蕕覆ぴ△簾愬を迎えて感激した覚鬚任蓮ち畭ルイ ド グラムモン神父の手で獲講議が熱心に施された.
李承發蓮い茲學び,ついに同じ神父の手で洗 を受けた.グラムモン神父は,朝鮮覚鬚糧彑个燭譴箸隆望を託して,彼にペトロという洗 名を えた.
一七八四の春,李承皀撻肇蹐蓮ぢ燭の書籍と十字架苦像,像本,その他いろいろの聖物を携えて歸國した.


獲硏鑽と 道活動

李承發歸るや否や,持ち歸った本と聖物を李檗に渡すと同時に,自身の受洗と,そこで見聞きしたことがらの一切を詳しく報告した.
友の歸國を一日千秋の思いで待ちあぐんでいた李檗は,數十冊の本を手にするやすぐ,人里離れてところに家を借りて蟄居する.
彼は,七聖事の解說と,獲問答,聖書註解,每月の聖人行跡,祈禱書などをはじめ,複音の眞理を明らす數多い 據と.迷信に對する徹底した反證が載っている本を,寢食をわすれむさぼり讀んだ.一冊一冊と讀み進みにつれ,彼は聖父と聖子と聖神の三位一 としての神と,カトリックの何物たるかがよりよく分ってきた.
彼は,新しい生命の光を受けて更に生れかわってゆく自身を感じた.複音 播の欲望も倍加した.
李檗は離れ家を引き拂い,彼がでてくるのを待っている李承發斑若銓,若鍾, 若彪残錣鯰鬚い砲い.そして,言った.
『これは,眞にすばらしい道理かつ誠の道である.偉大なるデウスは,わが國の哀れな民草をいじらしく思し召して,われわれが彼らを救濟の惠みに參 させることを望まれている.これは,デウスの命令だ.われわれは,デウスの召命のお呼びに耳をふさいではならぬ.カトリックを 播し,福音を廣めなくてはならない.』
熱意に燃える彼の言葉に四人の友も,デウスの道に同參することを誓うのだった.
李檗はまず,確かなデウスの子になるため,李承發ら洗 を受けた.名は,この地に救世主が臨まれる道を拓いたという意味で,パプテスマ ヨハンとした.
それからの李檗の 道活動は,驚くべき早さで進行した.彼は,自身が屬している兩班,中人,常民, 賤民の四つの階級で成り立っていた.
李檗は,万民が等しく神の御子であるという福音のメッセ−ジを聲高く えて步く.その結果, 道の成果は,有識な者の多かった中人と常民の間でいち早く現われだした.李檗の亡き後,覚鬚僚藺縊鯆垢鬚弔箸瓠ぁ\賛Α〇代には神父職をもつとめた常民出身の崔昌顯(チェチャンヒョン)をはじめ,中人出身の崔仁吉(チェインキン),金宗魁淵ムジョンギョ)などが彼らであり,韓國カトリック殉鎧砲梁莪貳嵬椶砲修量召鯰せる金範禹とその三兄弟もまた然り,である.


未信者學者獲討論

一方,羊斑や中人,常民を間わず,カトリックへ歸依者が瓩┐討いと世間ではこれを憂える聲が立ちはじめた.彼らは,國民信仰を脅かしているカトリックが,今の社會秩序を崩壞の危險に陷れるかも知れないと心配した.數名の學者が,この邪海墨任気譴震造┐觴圓匹發髻ぜ海伶値の世界にとりもどそうと試みることになる.
最初の試圖は,李家煥(イカハワン)によってなされた.彼は名高い學者家門の出身で,李瀷(イイク)の從孫であり,李承癲淵ぅ好鵐侫鵝砲砲亙貶の叔父にあたる.才能に秀で,一世の文士としても名を馳せた學者だった.ダルレ神父によれば,彼は,カトリックが人人の間にはびこっており,李檗が主導していることを聞き知って次のように言った.『これからほんとにたいへんなことだ.あの外國の獲が理に合わないようではないけれど,そうだとしてもわれらの儒海任呂覆ぁイ世里法ぽ,呂修譴任發辰討海寮い髻,┐気擦襪噺世Δ里澄ジ磴このまま座っていてはならぬことだ.行って彼を正しい道に導こう』
二人は,李檗の家で相對した.知人や好事家らも,このたぐいまれな論爭を傍聽そようと集ってきた.
二人は共に,自己の信ずるものへの確信が固く,同學の誤り正して眞理に導こうとする友情と熱意に燃えていたので,討論は容易に終らなかった.そして
三日目に,李檗が勝利の旗を揚げる.ダルレ神父は,「檗は細密な点に至るまで追窮し,李家煥の論理の建築をすべて破壞し去って塵にしてしまった」と書き,丁若匹蓮ぁ巒,陵妻曚蓮ま轗蹐販れる長河の如く,自己の主張を守ること,鐵壁のごとし」と,書いている.
李家煥は,自身の敗北と,「カトリックの道理が立派で誠であること」を認めた.しかしその一方では『これに從う人人に不幸をもたらすであろう』と,驚くべき予言の一言も殘した.《黃詞永帛書》には,後日,彼も《天學初函》などの獲書を借りて讀み,カトリックに歸依したと記されている.
この討論會は,新しい信者を得り機會にもなった.と言うのは,彼らは李檗がひろげてみせる神の國の美しさにとらわれてしまったのである.巷でもこの「三日間の獲論爭」は大きな話題となり,カトリックを廣く世に知らせた.すると,李檗はもう一人の論敵を迎えることになる.すでにカトリックに入信していた李寵億の父,李其讓である.彼も,學問的經論を積んだ名のある學者であったが,神の眞理の前で無力なのは前者と同じだった.
李檗は,世の起りと,宇宙の美しい秩序,神の攝理の偉大さを論 した.靈魂の本性と,そのいろいろな機能や,今世での各自の行いに見合う後世の賞罰と,その奇妙な調和について語った.そして最後に,カトリックの眞理が確固とした原理に基ずいていることを說破した.李其讓は討論に耐いられず沈默した.


韓國覚鯀藁の基礎固

その後,李檗に挑戰してくる者は,もう二度となかった.
李檗は,より速やかに福音を廣め,覚鬚鯀藁するため,人人から尊敬される,人格と學識豊かな人物を精神的指導者として迎え入れたいと願った.
彼は,天眞菴講學會の主宰者であり,二年前に逝った妻の兄たちで,自分には義兄にあたる權哲身(クオンチョルシン)と日身(イルシン)兄弟に白羽に矢を立ちる.
この學者兄弟は,李王朝建國の際,儒學を國家理念として確立させた權近(クオンクン)の子孫で,その學識と望の評判が全國に鳴り響いていた.家の陽根が〈學者村〉と呼ばれ,年中,各地方から集ってくる學問志望生で埋まっていたというのにも,そのほどがうかがい知れよう.
李檗は,陽根に義兄らを訪ねてゆく.そして,義弟を迎えた彼らの書齋は獲硏究場と る.
街張茱魯 パウロ二世が指摘されたごとく,「眞理探究に充實な」彼ら學者兄弟は,自身の蘊畜している智識を基に,カトリック獲の普遍妥當性をもう一度細密に檢討した.彼らはすぐ,神の道が眞理の道であるのを確信するようになる.
權哲身は寸時もためらわず入信した.彼はそれに止まらなかった.
東洋の使徒フランチスコ サベリオに倣って,傳道に身を捧げることを決心し,その名を靈名として洗禮を受けた.權哲身の場合は,彼が享受しているあまりにも大きな名望が決心をためらわせた.しばらく,榮華と眞理の間をさまよった後,ようやく李檗の切實な說得に屈し,アムブロシオという名で水洗する.
それにしても,李檗が彼ら兄弟に目を向けたには,慧眼というほかなかった.でなくば,神の導きといおうか.はからずも,この〈學者村〉から福音の全國擴散の道が拓かれていったのである.と言うのは,例えば,〈內浦(ネポ)の使徒〉と えられ,申酉迫害の時,殉海靴李在昌や,〈湖南の使徒〉として同じく斬首致命の花冠を授かる柳恒儉がみな,權氏兄弟の學を慕いこの村にやってきて神を知った人たちであった.彼らが忠翔擦帆翰綟三贇茲砲錣燭辰銅いた信仰の種は,方方で力强い芽を吹き出し,やがておびただしい信仰の實を稔らせた.そして無數の迫害にもくじけず,殉海料血で神に榮光を捧げる.この外にも,陽根は數多い改宗者を出して,韓國カトリック覚鬚隣裘廚噺世錣譴襪泙任砲覆襪里任△襦李檗は,千軍万馬よりもたのもしい同志を得て勇氣百倍した.信者の數も日を追って伸びてゆき,れっきとした信仰共同 の面貌を備えつつあった.李檗は,獲(信徒)たちがいつでも,だれでも(どの階級の人でも)自由に出入りできる集會場所を欲しく思った.彼はみなと相談し,本人の承諾を得て,中人出身の金範禹の家を選定する.その家は當時 明 (ミョンレバン)と呼ばれていた今の明洞に在った.ソウルの中心に高くそびえ立つ韓國カトリックの象徵,明洞大聖堂の礎が,こうして置かれた.
李檗は,ここで獲Г燭舛枇覚鬚療機ゝ啓阿鰄げ,彼らに講論し,新しい入信者のために獲の學習を施した.このように信仰生活が安定すると,信徒全員がいっそう 道にいそしんだので,垣はめざましく擴張してゆき,最初の迫害が起る一七八五年の春までには,實に五百名に及ぶ受洗入信者を出していた.
韓國覚鮑能蕕亮難,乙巳迫害

その日も,李檗と信徒たちは覚鬚僚犬い鮑鼎靴討い拭李檗は,典 儀式用の悗つ弘瓩魃織った正裝姿で上座に着いており,李承發斑若銓,若鍾,若匹了扱残錣函ぼ淨身父子がみな,「弟子と しながら」本を手にして下座に侍つていた.彼らの外に,崔昌顯(チェチャンヒョン),催仁吉(チェインキン),金宗魁淵ムジョンキョ),金範禹(キムボムウ),李寵億(イチョンオク),池璜(チハワン)などの姿も見えた.《闢異編》に載っているこの事件の記錄を借りれば,「檗が說法しながら海論すのが,われら儒海砲ける師弟間の 儀よりもなおもっと嚴しかった.」
この時とつぜん,秋曹禁吏(今の刑事)の一群れが闖入してきた.彼らは不問曲直して,そこにある聖畵像と獲書などを押收し,座中の人人をみな捕らえて連行した.これは將來,一世紀余にかけて,韓國カトリック覚鬚鵬辰┐蕕譴襪△龍欧靴で害の前 れであった.さて,秋曹判書(今の檢察廳長官)は,上大夫の子弟らが捕らえられたのを知ってびっくりする.士大夫を罰するのは,反逆罪でない限り,いろいろと面倒なことが起こる憂いがあった.判書は,家の主人である金範禹だけ殘し,みな釋放した.だが士大夫らは,そのままおとなしく引き下がらなかった.權日身ら五人が秋曹に押しかけ,聖畵像を返してくれるよう,そして自分らも金範禹と同じ宗海鮨奉する者たちであるから彼に下す罰を共に受けさせてくれるようにと,懇請する.判書はなお更驚き,事件が政治問題に飛火することを恐れて,彼らを論し返らせる一方,いち早く金範禹を流配刑に處してこの事件を閉じた.
しかし,事は終ったのでなく,ようやく始まったばかりだった.なぜなら,この事件は,當時の記錄に書かれているような偶發事ではなかったのである.斥邪派(カトリック排斥勢力)の陰謀だった.彼らは,士大夫の子弟らが邪海鯤瑤犬銅厥鮹畚を混亂させていることを衝擊的に世に知らせ,〈斥邪〉をこのたびにしっかりと公的入場に固めようと企んだのであった.
間もなく,それを裏付ける一連の行動が彼らによって試みられる.まずその第一は,信者の家門勢力を利用して棄海気擦襪海箸世辰拭イ修侶覯漫兩班の家門ごとに門中會議が開かれた.會議では信者の有無をたしかめ,おればその者をして門中の親類,姻戚を殘らずまわりながら謝罪し,邪海魎てることを誓わせた.
その第二は,通文をまわすことだった. 時に行われていた一種の回覽書翰である.それは,ソウルの四大門の內と外ばかりでなく,川上から川下にかけた廣い地域にわたって,兩班と名のつくすべての家を網羅する大か掛りなものだった.通文の內容と,それをまわした各地域の擔當者の名が記錄に殘っているのをみても,その時の殺伐な雰圍氣を推し量られよう.通文の中で彼らは,カトリックを「西洋から仕入れた惡の鍾」と通罵し,「そのような天主學( 時のカトリック呼 )を棄てよとの父母兄弟の論しに從わない者は夷狄と違わない.故に彼らを門と垣根の外に追い出すべきである」と,攻擊している.
こうした事態の中で兩班出身獲Г燭舛帽澆蠅かった苦難は言うに耐えなかった.李檗は言わずもがな,李承發簔若鍾の家でも,その父らが門中會議に呼び出されて元老たちから嚴しい詰問を受ける.そして,李承發簔若鍾兄弟が親類,姻戚を謝罪してまわるまで,門中會議の追及は續けられた.彼ら獲Г燭舛蓮ぜ觧匆函,了拉曚垢襪海亮厥鬚如ず埜紊泙任録討量仁瓩傍佞蕕┐覆った.心の奧に信仰を隱して,一族の大人たちに,『心勞をおかけして申しわけありません』と射まってまわるほかなかった.だれよりもいちばん深い苦惱に陷り,また,神がだれによりもいちばん大きな試鍊をお えになったのは,李檗であった.


神のにもとに 

李檗の家門の慶州李(キョンジュイ)氏一族は,剛直な氣風で鳴らす武門である.それだけにこの門中でおこった騷動は 大抵なのでなかった.
李檗が,あの惑世誣民の邪學を 播して,追從者を募っていた魁首だったと聞いては激怒した.彼の弄する邪說たるや,今の社會の身分制度はまちがったもにで,等しく神の被造物である人間には貴賤の區別がないとか,であるから「男尊女卑」もまちがっていて,本來男女は平等であるとか,という惡辣なものだったというのである.そればかりか,「男女七歲にして席を同じゅうせず」の床しい儒倫理までも否定し,社會の美風良俗を傷つけていたというのであった.しかも,これらのことは一例にすぎず,數え上げればきりがないというのだ.
昔,わが家門の先祖李齊賢(イゼヒョン)が高麗末期に確立させた性理學體系が李王朝建國理念の基となって,今日の儒骸厥鬚鰌藐修気擦燭里任呂覆ったか.それなのに,今,その子孫の手で,これを根元からゆさぶりくつがえそうとしているのだった.到底許せることではなかった.門中の强硬派は,李檗を家門から勘 すべきだと主張して止まなかった.それでも元老たちは,一 李檗を出頭させ謝罪させることで,强硬派をなだめながら善後策を講ようとする.李檗はこの命令に服さなかった.彼が背海槪念を確實に把握していたのかどうかは知る由もない.おそらくその時代には,そういう語錄さえなかったのではあるまいか.かだ,彼はあまりにも神を愛し,そして,自身の志す道がなのを確信していたので,一步といえども讓ることができなかったのであろう.
それはさておき,門中會議が激憤のるつぼとなっただろうことは想像に難くない.こうなると,門中と息子の間にはさまった父李富萬(イブマン)の苦しみも尋常ではなかった.血筋の剛直さもさることながら,名譽や體面を重んじる潔白さの人一倍强かった李富萬は,この不測の事態にすっかり動轉する.彼は每日,門中會議に呼ばれていっては,元老たちからひどい叱責を受け,强硬派からは彼の家を族譜(一族の系譜)から拔くと脅迫された.家門から追放されることは常民の身分に落ちることであり,それはまた,剝奪官職につながる廢家亡身を意味した.恥と怒りに震えながら息子にどなりもし,哀願もしてみるが,息子は會議に出ることも,天主學を止めることも,頑として拒むんであった.門中と息子の間で雅字 めになった彼は,絶望のあまり首を吊ろうと,天井の梁に나紐をかける.幸い,自殺騷動は未然に收まりはした.が,一家の長が死ぬ決心までするとなっては,事は深刻だった.母は淚で息子に訴えた.『この世に父を受吊りさせる宗海どこにまたあるというのか』と,彼女は息子にすがりつきむせ泣びいた.父の首に二度と吊り紐をかけさせたくなかったら,天主學を海┐暴步かないことだけでも約束せよと强要した.
この國は人の道の根本とする社會であった.彼も,「父母を敬え」という,デウスの十戒を信徒たちに說き論してきた.信仰の美名の下に,禁じておられる自殺の大罪を父が犯すまま,傍觀していいのか.彼は愛の神にすべてを任すほかなかった.母に『では,でかけません』と約束する.
このことをダルレ神父は,「彼が二つの意味を持つ言葉を使って自分の信仰をかくした」と,書いている.しかし,その時代の兩班社會,中でも特に,名門をほこる家門の嚴しいおきてを知っているこの國の人は,李檗が忍び耐え拔いた苦惱をあまりにも痛き,己れの身のように感じ取ることができる.
ともあれ,こうしていったん,父の死は食い止めたが,李檗の苦難は去らなかった.門中會議は,「息子が邪海魎てることを誓った」という,李富萬の言付けだけでは引き下がらなかった.
李檗が會議の場に自ら出頭して誓うこと,病患中というのが事實なら,自筆で斥邪文を書いて出すことを要求するのである.
李檗は依然として,そのいずれのも從わなかった.母との約束は「天主學を海┐暴步かない」ことであって,それを棄てることではなかった.どうせこの騷ぎが收まるまでは覚鬚僚犬い發爐困しいだろうから,父の死を防ぐためそうしたままで,棄海覆匹六廚い發茲蕕覆い海箸世辰拭
少年時代,《天學初函》の中に展開される神の世界に足を踏み人れて以來,彼は神を離れ生きたことがなかった.しかも「神在ます」のをだれかに海┐討發蕕辰燭里任發覆った.自ら尋ねて出會った神なのである.どうして神を遠ざけえよう.
李富萬はほとほど困り果てる.彼は倍瓩垢詭臙罎淋變呂函い匹Δ靴討盻估しろと言うなら,行って天主學の眞理を講說すると答えるばかりか,斥邪文のかわりに《靈得敬神記》カトリックの獲を書いて差し出す息子との間でなす術を知らない.
一方,息子と父と門中の三つどもえの網引きが續いている間,外では斥邪派の陰謀が着着と進んでいた.そしてついに同年四月,〈天主學禁令〉が敷かれる.陰謀者たちは完璧な勝利の凱歌を上げた.覚鬚鮗困辰匿瓦鱗,蟒蠅鬚覆した迷える羊たちは地下に潛った.
門中の人人と李富萬は愕然とする.まかり間違えば,李檗の罪に連座して家門の滅亡をもたらすかも知れなかった.門中會議では寸時も待たれず,李檗のもとに直接人を送って棄海燐虍櫃魍里めることを決定し,あわてた李富萬は息子を內屋に軟禁して通門に釘を打ち,出入り禁止のなわを張るというヘプニングを演出する.病名は,いったんかかれば死ぬと恐れらた賜チブスだった. 門中では,李檗の過ちを天が罰したことで滿足し,會議を解散した.
しかし,李檗の苦難はそれでも終らなかった.神はご自分のいとおしむ者にたいし,ご自分の方式で愛を示されるのだ.
李富萬は,李檗が內庭から一步も外へ出るのを許さなかった.息子がかぶとを脫ぐまではそうして閉じ めておくつもりだった.兄を亡くした金範禹(キムボムウ)の弟たちや,催仁吉(チェインギル),崔昌顯(チェチャンヒョン),金宗魁淵ムジョンギョ)など,覚鬚竜畤寄擇鮗困辰討気泙茲獲Г燭舛寂しさに耐え切れず訪ねてきては,その都度,李富萬に追い返された.李富萬は,李檗がほんとうに チブスにかかっていて傳染するとしてもかまわないから,會わせてくれるように歎願する獲Г燭舛鬚擦擦蘊个Δ个りだった.そして,息子は自らの誤りで惡い病氣にかかったのを後悔し,もう二度とは天主學に手を染めないと決心しているから,息子を苦しめるなと大喝するのだった.
李檗に,骨をけずる苦痛の日日が流れていった.彼は,父の怒りと門中の騷ぎが靜まるのを待とうとした自身の思わくが,完全に外れたのを認めないわけにいかなかった.今は母までも加勢して,少しでも不穩な行動をするなら父といっように首を吊ると脅迫しているのだ.祈りの中で彼は,「神の道具」としての自身の役割が終ったのを悟る.李檗は,きれいに をすすぎ,羞蕕憤疉に着替いて部屋に入り,座に着いた.主よ,あなたに任せます.意のままになしたまえ.
彼は,一切の飮食を斷った.睡眠も取らなかった.そのままの姿で,祈禱と默想で過すこと十余日...一七八五年六月十四日,正子の刻(夜十二時),神は彼をみもとに連れてゆかれる.享年三十一歲.天眞菴(チョンジンアム)講學會からわずか六年の間に,彼は世界カトリック覚鮖砲隆饑悄歇生覚鯀藁の偉業を成し遂げ,こうして去っていった.弱った が,ちょうどその時流行っていた疫病に負けたのだと えられる.
彼が逝った後,人人は《天主密驗記》という,三卷で成る彼の新しい著書を發見した.その遺稿が三個月の軟禁生活中に書かれたのか,十余日の蟄居中に書かれたのかは知る術がなかった.
李檗に關しては,一八0一年に黃詞永(ファンサヨン)帛書で一八一八年に丁若匹墓誌銘と各種の《經書註解》の中で,一八四0年に金大建(キムデコン)神父( 時は神學生)が《韓國天主覚鮖槪要》で,そして一八四六年に丁學述(チョンハクスル)が《李檗 》で,また一八七二年にダルレ神父ガ《韓國カトリック覚鮖法佞涼罎如い修譴修譟ご旆▲トリック覚鯀藁者としての業績を記錄している.李檗パプテスマ  ヨハン.彼の一生は三十一年にすぎなかったが,不滅の生を生きていった.彼が四方に点した信仰の火は,いくたびの荒れ■うあらしにも消えず,すぐまた,たくましく燃え上った.そして一七九四年,この地を踏んだ最初の司祭,周文模神父は,この「奇妙な信仰の國」で,四千に及ぶ信者たちに迎られるのである.
今,彼は,自ずから福音の初種を蒔いた天眞菴の址の眠っている.權哲身,權日身,李承癲っ若鍾の四位と共に.李富萬の家族墓地であった今の京畿道抱川郡內の共同墓地に一九五年の間,忘れ去られていたのを,一九七九年,卞基榮神父が探し出し,ここに安置した.郡の山林計劃で破墓直前のことだったという.われらの聖祖を慈しまれる主に榮光あれ.われらに信仰の祖の「現世の刑見」を返してくださった攝理の讚美と感謝を捧げる.




友人李祖輓詞

仙鶴下人間
軒然見風神
羽 皎如雪
鷄鶩生 嗔
嗚聲動九 
 亮出風塵
乘秋忽飛去
  空勞人

乙巳年(1785年) 丁若 作

仙鶴が人の地に降り立ち 屹然と神仙の面影を誇る眞白き羽は雪の如く
鷄や家鴨の妬みも激し 嗚き聲は朗朗と九天を震わせ出ずる音麗しく罎蕕に風塵を拂う秋訪れ歸る時至るや忽然と飛び去る 限りなく悲しみ嘆くとも如何にせん






韓國天主覚鯀藁者 曠 菴 李 檗 略  


一九九0年 四月五日 發行
著 者 卞 基 榮 神 父
譯 者 文 昭 詠

發行所 韓國天主垣鎖聖硏究院
京畿道廣州市退村面中山里500番地
電 話 : 031)764−5953





韓国天主教会創立主役

プランチスコサベリオ稷菴 • 権日身聖賢


権日身聖賢は、1742年京畿道のヤングン戸菴 • 權巖の5人兄弟の内、次男として生まれた。その兄、哲身とともに当代に名望の高い碩学として正祖王さえも彼を尊敬して、大事にしていたと伝われている。1784年、李檗聖祖の説教でカトリックに入教して洗礼を受ける時、プランチスコサベリオという教名を選んだ聖賢は李檗聖祖、李承薫聖賢とともに、韓国天主教会創立の主役であった。その熱心さと学識は李檗聖祖の期待以上であった。聖賢は自分だけカトリックを信奉するのではなく、家族全部に教え始め、周りの友達や知り合いにも信仰を伝えた。
この三人、つまり李檗パプテスマ • ヨハンと李承薫ペトロと権日身プランチスコサベリオは新たに開拓した真理の道に意気投合して共に歩み、全ての時を利用して韓国の民たちにカトリックの信仰を伝えた。そして権日身プランチスコサベリオは、忠翔酘擦陵存昌も入教させた。その時から内浦はいつも熱心な天主教人たちと立派な殉教者たちの搖籃になっていた。
全羅道に天主教会を伝え、しっかり基礎を固めることもやはり権日身サベリオによるものだった。柳恒倹を入教させることによって、湖南のカトリックは始まった。
アウグスチノという本名で洗礼を受け、柳恒倹の熱誠と恒久的な心は聖賢の指導で南部地方の天主教会の礎石として認められたのである。
1785年に、刑曹判事 キムファンジンが明礼坊(今の明洞)金範禹先生の家で李檗聖祖の主導で開催されたカトリック集会に注目して捜査した後、金範禹を逮捕して聖物を押収したが、これが韓国カトリックに対する最初の迫害である乙巳迫害である。聖賢はこの時集会に参加した多くの両班の子弟たちと、同教人として運命を共にすると誓い、刑曹に入って金範禹を釈放して聖物を返してもらおうと強く申し出たが、家主の金範禹ばかり島流しにし、他の両班たちは皆家に帰らせた。
乙巳迫害以後、明礼坊(今の明洞)の集会は中断され信者たちの共同体は解散された。なおかつ韓国天主教会の創立者である李檗聖祖が門中と家の迫害で殉教なさると、活発に伝教した権日身プランチスコサベリオはこの最初のカトリック信徒団体と信徒集会をまた開こうと決心し、チョドンソム • ユスティノと一緒にヨンムン山に入り、沈黙と潜心で8日間の自発的避静を行った。
その後、碩学だった権日身聖賢を中心に李承薫、丁若鼻丁若銓などはまた力を合わせて教会活動を展開し、この頃に福音伝播をよりわかりやすくすると同時に、新人教友たちの信仰を固めるために、聖賢は李承薫聖賢と丁若彪残鏥擇啾召凌者達と一緒に臨時の準聖職制度を決めて聖務を遂行し、信者達の世話をし始めたのである。
李承薫聖賢が北京で主教、神父などカトリック教会の聖職者たちが聖務執行をするのを覚えてきたので、これを倣って信者達の面倒見を始めたのであった。
それで当時の信徒代表たちは、カトリック礼節書や教理書にあるさまざまな説明を読んで教会の臨時責任者たちを選定した。
地位と学識と徳望、また李承薫聖賢より年が14歳上である一番すぐれた権日身聖賢が中心になって李承薫、李端源、柳恒倹、崔昌顯など多くの人が司祭に先任された。主教成聖式や司祭敍品式と似ている儀式があったかはわからないが、全国各地に分けて担当区域の責任を引き分け、それぞれ自分に与えられた任地に直行して説教と聖洗と懺悔聖事を与え、ミサ聖祭を祭ったり信者たちに聖体を与えるなど司牧を始めた。
天主教会の聖職者制度をあまり知らないにもかかわらず、天主と教会のために自発的な善意で始めた朝鮮天主教会の臨時聖職者たちは、司牧的に驚くべき成果をあげ、約2年間その職務を続けた。しかし1789年に教会書籍のある句をより詳細に研究した結果、臨時聖職達は疑問点を見つけ出した。そして今までの職務を中止して北京の西洋宣教師たちに問い合わせることにした。多くの信者の前でそれなりの職位について職務を遂行していたのに止めたら、皆に笑い者にされるかも知れないのに直ちにその職位を捨てると言うことは彼らにとっても容易ではなかったであろう。しかし、彼らの意志は正しかったし信仰も真実だったので、どんなことがあろうと聖職を冒涜するつもりはまったくなかった。だから彼らはすぐに平信徒の位置に戻って、それからは新入教友たちを教えたり、外教人に信仰を伝える事だけに専念した。
北京主教に問い合わせをする手紙は、李承薫聖賢と一緒に信徒代表として権日身聖賢が書き、それを確実に渡す方法を模索していたが、年例使臣の中国のお出かけの機会を利用することにした。しかし中国天主教会との連絡は密かに行わなければならないので、この危険な使命が任せられる有能で献身的な人物を捜さなければならなかった。
使臣の中にはカトリック信者がいないので、信者の一人を外教人に見つからないように中に入れなければならなかった。この重要な使命のため、予備信者である尹有一 •バオロに目が向けられた。尹有一 • バオロは、驪州地方の両班家の子孫であり権日身聖賢の弟子として聖賢から学び、性格が温順で親切だし、口が固いので計画された今回のことにもってこいの適任者であった。尹有一はこの使命を受けて北京の主教に渡す権日身聖賢と李承薫聖賢の手紙を持って商売人に変装して、1789年10月に北京に向かった。このようなことを主導的に指揮した人が権日身聖賢である。つまり、李檗聖祖の殉教後、第2代のリーダーとして権日身聖賢が新生の朝鮮天主教会を指導することになったのである。
北京への3千里の道の旅行は、使臣の中の多くの人が途中で病気にかかって倒れるほど大変だった。幼い頃から勉強ばかりで他の旅行の経験などなく、見知らぬ人々との旅行であるから、尹有一にとっては普段よりも何倍もの疲れを感じることであったが、遂に幾多の困難をのりこえて北京にたどり着き、すぐ主教を尋ねて、持っていった手紙を渡し、朝鮮で起きている全ての事と新たに生まれてくる朝鮮天主教会の喜びと悩みを詳しく語りあげた。権日身聖賢のお使いとして来た尹有一は、北京教会にも大変喜ばしいことであった。
一人の宣教師もいない国で、その国の信仰がどれほど普及されているかを説明しているこの天主教人の存在は、北京にいる宣教師たち特にグベア(Gouvea)主教にとって驚くべきであり、かつ歓迎すべきお客さんであった。主教は神様に任せられたこの新しい教友たちに急いで司牧教書を書いた。1790年の春、尹有一は中国から帰国する前に、洗礼と領聖体と堅振聖事を受けた。この天上の助けで力を得た彼は、幾つもの苦難を乗り越えて、誰にも疑われず国境を越えてソウルに無事帰ってきた。
主教の回答は、尹有一 • バオロの服の中に隠して朝鮮に持ち込みやすく絹切れに書かれてあった。手紙の宛先は李承薫、権日身二人の聖賢である。主教は、まずカトリック信仰に導いてくださる天主の数え切れない恩恵に対して、極めて善良で、極めて偉大である天主様に感謝を申すことを朝鮮の新入教友たちに勧めた。また福音の恩寵を保つために必要な方法を講ずる時、恒久な心を持つことを強調した。教理とカトリック倫理を簡単に説明しながら、李承薫ペトロと権日身プランチスコサベリオなどが、いくら善意でもむやみに司祭聖職を遂行することは禁止させた。神品聖事を受けていないのでミサ聖祭を行ってはいけないし、洗礼を除いた他の聖事も絶対に行ってはいけないことが説明されていた。
長い間待っていたこの返事は、今まで持っていた疑惑を晴らし、学者たちは手紙の内容に完全に従う気持ちで受け止め、それぞれ聖職遂行の中断を再確認した。そして主教に牧者をよこしてくれるよう懇請した。
牧者を得るための朝鮮新入教友たちの懇請と迷信崇拝、祖先恭敬などの難しい点に対するさまざまな質問に対して、北京の主教は学識と熱誠のある宣教師たちの意見を聞いた後、朝鮮の人の質問に返事をして、彼らに神父を送ることを約束した。そして彼らがその神父の入国が手伝えるように、いつ、どのように、どんな姿で国境に現れるかを教えてくれた。
こうしている中、1791年の全羅道で思いがけない迫害が起きた。権日身プランチスコサベリオは、1785年の乙巳迫害の時にはその気迫と名声で無事だったが、辛亥迫害
(1791)の時は反対者たちの妬みにこれ以上耐えることができなかった。聖賢の名と学識と努力が新しい教理伝播にどのくらい影響を及ぼすかを皆は知っていたので、珍山事件をきっかけに、洪楽安、睦萬中及びその他の大勢の人がカトリックの中心的なボスである権日身聖賢を指名して告発した。それで権日身プランチスコサベリオは、その年の11月に逮捕されて刑曹に移された。官員たちは聖賢の意を曲げることができず、何回も拷問し、恒久な信仰心を放棄させるためにあらゆる刑罰を加えた。しかし権日身聖賢は少しも屈しないで、刑吏たちの拷問と罰にもしっかり自分の信仰を告白しながらこう語った。“天と地に天神と人を創造した偉大な天主を仕えないことはできない。この世の全てがもらえても神様に背くことはできないし、神様に対する自分の義務を放棄するよりいっそ死んだようがましです。”と語ったそうだ。刑罰によって聖賢の身はぼろぼろになった。しかし、権日身聖賢をよく知り、その立派な資質を高く評価していた正祖王はカトリックの反対者の要求があるにもかかわらず、聖賢の死刑判決文に署名しよとしなかった。正祖王は、聖賢の気が変えられるようにあらゆる手段を使ってでも説得してみろという命令を出した。王の命令によって以前にもまして厳しい拷問と誘惑が権日身聖賢に加えられた。励まし、お世辞、約束、慫慂などさまざまな手が次から次へと使われたが、無駄であった。それでもっと重罰と拷問が加えられたが、聖賢は迫害者たちの甘い慰めにも、ひどい苦痛にも耐えられた。
権日身聖賢を死刑にする決断ができなかった正祖王も仕方なく、聖賢を濟州道に島流しにする判決を下した。
聖賢はこの残酷な刑罰と誘惑に勝ちに抜いた。聖賢の信仰は不屈で確かなものであった。配流地に行く前に傷の治療を治すために何日間ソウルに泊まることが許され、義弟のイユンハの家にいて島流しの日を控えていた、聖賢に正祖王は最後のぎりぎりまで降参させようとした。王としての面子も有り、一方で一人の有能な学者を失いたくなかったので、王は刑曹の何人かに頼んで権日身聖賢の80歳の老母の命が残り僅かであることを言いかかりにして説得させようとした。一旦海の向こうの濟州道に行けば、母の最期を見守ることができないので、一生その呵責を胸に秘めてどう耐えるつもりなのかと、孝行の心を利用して無理にでも背教の意を表わせようとした。
しかし、背教という言葉さえ口にしたら権日身聖賢が憤慨したのでそういうことは言わないで、ただ減刑をしてもらって、配流地の距離を縮めてもらうように王に譲歩したらどうだ、と言いながら、権日身聖賢が強い反発の代わりに黙っているところを狙って、当時そこにいた一人が急いで彼の書いた文章に背教ではないが、少し譲歩するという意味で一字を加えたと伝えられている。完全ではなく、曖昧な文句が書かれているとも伝えられている。つまり‘西洋人の宗教は、東洋のとかなり違う。孔子と孟子の道理は、間違っていて偽りである。’という権日身聖賢の文を、‘西洋の宗教は孔子と孟子のと違って、偽りである。’とも解釈できるように‘於’という字を加えなければならないと迫害者たちが言い張ると、刑罰と拷問でくたびれている権日身聖賢は、“私をほっといてくれたまえ。それは君たちがしたいことであろうから、何をしようと私とは何の関係があるまい”と答えたという。迫害者たちは直ちにその字を付け加え、正祖に譲歩の報告ができるように捏造したのである。官吏たちは、権日身サベリオが屈服したと報告しながら根も葉もない噂を流した。一字で背教者を作り上げ、勝ったと自慰している迫害者たちの態度はおかしくてならない。
そういう訳で配流地は変わり、近くのインサンと決まった。しかし聖賢は厳しい刑罰の後遺症でそこまで行くことが出来ず、1792年の初め、龍仁郡にある宿で島流しの初日に杖毒で神聖な殉教の最期を迎えたと伝えられている。
しかし、一説では、正祖王が権日身聖賢をとても可愛がり、死なせまいという努力があまりにもすごかったので、これを妬み、また憂慮した迫害者たちが刺客をつけて、これまでの刑罰で、いまにも死にそうな権日身聖賢を島流しの初夜に宿で首を絞め殺したとも伝えられているが、殺さなければならなかった理由は、いつか王が権日身聖賢を島流しから開放したり、また権日身聖賢の弟子たちと追従者たちの勢力が強くなることを恐れていたからである。いずれにせよ聖賢が信仰のため殉教したことだけは確かである。その頃、朝鮮の官吏たちのさまざまな刑罰と誘惑にも負けず、最期まで信仰を保ったゆえに、聖賢は当時の朝鮮教友たちから死後にもずっと尊敬され続けた。




韓国天主教会 創立主役

アムブロシオ鹿庵 • 権哲身聖賢

権哲身聖賢は、権日身聖賢の兄で1736年京畿道ヤングンで権巖の息子として生まれた。朝鮮建国の功臣であり、学者であった権近の後裔で名門大家の子孫だった聖賢は、5兄弟が皆知識と徳望で有名であった。また聖賢は経済学と礼学において当代のすぐれた儒学者として経書の哲理と倫理を研究するのに一生を送り、かつて李檗聖祖が韓国に天主教会を創立するための礎石にしたいと思われた方である。
膝下に息子がいなくて弟の権日身の息子である権相問を養子にし、該博な学識と共にその徳行がまた優れていたので多くの人に尊敬された。
星湖 · 李瀷先生の教えに従って実学的な路線を重視した聖賢のまわりには、立派な弟子たちがたくさん集まってきて、かねてから丁若銓が礼物を捧げながら教えを請じて師匠にしようとしたし、丁若鐘、李承薫、金原星など当代の士たちが聖賢のまわりにだんだん集まってきたので、後日曠菴 · 李檗聖祖は鹿庵 · 権哲身と稷菴 · 権日身とそのまわりの士たちがカトリックに入教すれば、後をついて来ない人がいないだろうと思い、聖賢を韓国天主教会の創立の礎にしようとしたとダブルィ主教が語ったほど当時の漢陽では非常に名望が高かった。
1779年の冬、聖賢は丁若銓が開催した天真庵講学会に指導者、主題講演者として参加したが、最初からカトリック教理研究の為の集まりではなく、従来の儒教学者たちを中心とする一般的学問研究の集まりであった。しかしこの集まりに李檗聖祖が参加するようになってからは儒教的な講学会ではなく、カトリック研究と信仰実践のきっかけになる講学会にとその性格が変わった。この時鹿庵聖賢も曠菴 · 李檗聖祖の該博な知識と明快な論証を通じてカトリックの教理をすこし理解するようになった。聖賢の身分と社会的な位置があったのでカトリック信仰をすぐには実践しなかった。
曠菴が参加したカトリック教理論証に関する天真庵講学会の記録は、資料によって若干の差があり、ダブルィ主教の(朝鮮殉教者備忘記)には、1777年に講学があったと記録しており、丁学術の李檗伝には1778年と1779年にあってと書かれているが、丁若匹1779年の冬にあったと記録されている。正しいのは、1779年を前後に曠菴 · 李檗のカトリック教理論証講学が本当の意味での朝鮮天主教会歴史の始発点であり、これは第5代朝鮮教区長であったダブルィ主教が彼の著書で論破しているし、金大建神父も(朝鮮天主教会略史)にも‘李檗博士の偉大な講学’を韓国天主教会の自発的な教会創立の出発であると書かれている。
天真庵講学会を通じて、鹿菴 · 権哲身聖賢が李檗聖祖からカトリックに関する論証を聞いて信仰を持ったとしても、そういうこととこれをすぐに実践するということは
別の問題である。何故ならば、講学会の当時の年齢を見れば、鹿庵 · 権哲身が43歳、曠菴 · 李檗25歳、李承薫23歳、丁若銓21歳、丁若鐘19歳、丁若17歳などで、権哲身聖賢はこういう若者達と違って、あまり自由な立場ではなかった為に、著名な碩学の位置にある両班大家の長男でもあったから、儒教の慣例上祖先の祭祀などいろいろな問題を抱えており、カトリック信仰を実践することに躊躇したというよりも現実的に難しかったのである。
1784年の秋、曠菴 · 李檗聖祖が馬に乗ってヤングンに来て、鹿庵を入教させようと10日余りを泊りで討論と伝導活動をして、遂に弟の権日身聖賢が入教した後、権哲身聖賢もカトリックに入教したのである。入教する前は躊躇していた聖賢だったが、入教してからは家族たちにも村の人々にも入教されるために努めていたし、彼がすでに享受している信望は多くの士たちに“鹿庵先生の兄弟が信じる宗教なら信じるべき宗教”だと確信を与え、曠菴 · 李檗聖祖の選択と期待を裏切らなかった。
権哲身聖賢は、自ら伝導活動をしないで、天主教会の運営にも決して直接関与せずに、お祈りと参禅を楽しみながら尋ねて来る人々に親切で寛大に接していた。しかし、1785年の乙巳迫害を皮切りに権氏家門は迫害勢力の妬みと憎悪の対象となった。本来有名で名門の家門がカトリックを信じることで非難と迫害も大変なものだった。遂に
1791年の珍山事件を契機に起きた辛亥迫害で、弟の稷菴 · 権日身聖賢が刑罰と拷問の末、島流しに行く途中の宿で刺客によって殺され殉教されると、この迫害で全羅道地方の有力な教友たちも殉教し、天主教会の指導階級の損失も大きかった。それで丁氏家と権哲身アムブロシオ聖賢だけがカトリックの信仰人として残っていたようだ。このような立場にもかかわらず、聖賢は依然として直接布教には関与しないで、学問とお祈りを通じてカトリックの信仰生活を一生懸命に実践していた。迫害者たちはこういう鹿庵を徹底して嫌い、憎悪と恨みは日々に増していった。
1799年、迫害者たちはとんでもないでたらめなことを企み、聖賢を陥れようと告発した。権氏家の子弟たちもこれに対抗して事が大きくなったが、地方の郡首が賢明に対処して真相を明らかにしたので迫害者たちの企みは失敗に終った。
しかし、迫害者たちの悪賢い企みは、ソウルにある反対勢力と手を組んでもっと密かに行われていた。その年の夏、迫害者たちによって、権哲身聖賢と丁若鐘聖賢が天主教人の頭に当たるといって正祖王に上訴された。しかし王は、上訴を申し出た申獻朝の職位を剥奪し、天学事件を口にすることさえ禁止した。迫害者たちはまた、1800年5月に王に上訴を出したが“ヤングン村に邪学がとても盛んでいて学んでいない者も信じていない村もないくらいなのに、郡首は平然